北の杜編集工房トップページ - 北の杜編集工房会社概要 - 北の杜編集工房北の杜文庫のご案内北の杜文庫別冊・人物ドキュメント文庫北の杜文庫・単行本作品リスト - 北の杜編集工房お問い合せ - 北の杜編集工房
北の杜編集工房 
北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
十一、戦後処理
 
(三)盛岡藩処分
  国表(盛岡)では八戸弥六郎がひとり戦後処理に奮闘しておるのですが、南部藩の江戸屋敷にあっては、藩の処分をめぐって目時隆之進を中心に重臣らが協議を重ねて奔走しておりました。
 まず、佐渡さまひとりを秋田戦争の首謀者として届け出ることとしました。また、藩主利剛は隠居、利剛の嫡子彦太郎利恭(としゆき)さまを後継者にしたい旨を願い出て、太政官布達をもって認可されました。
 次は、転封(大名の領地を移す)先です。
「できるだけ遠い方がよか、会津は北じゃきに盛岡は南じゃな」
 新政府から、こうして出された辞令です。
「下賜旧仙台領白石十三万石」。
 陸前国(現宮城県)の柴田郡、磐城国(現宮城県)の亘理郡、伊具郡、刈田郡、岩代国(現福島県)の伊達郡の六郡をあわせて十三万石です。二十万石が十三万石になるのはしかたないにしても白石への転封は致命的でありました。
「これで十三万石、遠いぜよ白石は、おまはん、これでよかがか」
 軍務官邸で大図面を広げての知行割りです。盛岡藩を代表して立ち会っているのが目時隆之進でありました。
「どこだっても、頂けることはありがたいことでござんす」
「ほんじゃ、これで決まりちゅうがよ」
 旧南部領はすべて召し上げられることになります。
 九戸、鹿角、閉伊、岩手、紫波、稗貫、和賀の七郡は、真田藩と戸田藩にお預けとなりましたし、三戸、二戸、北の三郡は津軽藩支配と決定したのです。
 この知行割りに目時隆之進が加わったといううわさが盛岡城下にながれました。そうでなくてさえ、この男に冷たい盛岡藩士たちの目です。秋田戦線では、敵側につき祖国討伐に手を貸した男です。それだけではありません、終戦とみるやすばやく帰還して、八戸弥六郎とともに執政の座にすべりこみ、かつての朋友たちを戦犯者よばわりして牢に入れる、あげくのはては自藩の知行割りに首をつっこみ、なんの申し開きもなく受け入れたとあっては、腹の虫がおさまらないのは旧盛岡藩士たちです。
 転封を命じられた若き藩主南部彦太郎利恭は、東京から直接白石へ赴任しました。だが、いくら待っても盛岡からの家臣たちが到着しないのです。
「今般転封仰せ出され候う儀、遠境の土地にて朝廷の思召貫徹致さず、一応意外の儀と存じ候向も有るべく候え共、段々当秋以来の罪状を顧み候えば、拠 なき仕儀にこれ有り候処、此度至仁の思召を以て白石の城御預り、陸前磐城岩代三箇国の内に於て、更に十三万石下賜され有難き仕合せと存じ奉り候う。然る処、万一心得違いを致し、私論を立て動揺の儀之有り候ては、此上は忠孝の大義を誤り候のみならず、容易ならざる事に至り申すべく候条、熟と大義順逆を弁え、此末如何様の儀これ有り候共、決して異論之有間敷く、諸共に国中勉励致し、他日天恩に報い奉り候儀、只管心掛け申すべく条、書面の趣き能々耐忍すべき事」(遠野南部家文書)。
 新藩主は、家臣たちに再三にわたり書簡を送り白石移転を要請します。
 しかし、負けて賊軍となった結果とはいえ、七百年来の故国を離れて未知の地である白石へ移封です。大方の藩士たちにとっては不可能な移転でありました。
「白石さ如何(なんじょ)にして行くのせぇ、幼児だの老人連れで」
 盛岡から、家族(女や子ども)連れで、いくらかでも家財を持って行くとなれば、まず新山船橋から船で北上川を下り石巻に向かいます。ここで海船に乗り換えて荒浜に行き、そこでまた川船に乗り換えて阿武隈川をさかのぼり、船岡か大河原で下船します。ここからがまた難渋です、馬か駕籠で一日がかりで白石に着くといった状況です。その日数と費用を考えたらたいへんなものでありましょう。
 から身ひとつの健康な男子ならば、川を頼らずに陸を歩いても行けるでしょうが、女や子ども、老人連れでどうして七十里もの道中がかないましょうか。
「諸士の路用(旅の費用)は支弁致しかねるにより各自才覚してなすべき事」
 だいいち、路用を出したくも藩の金庫にあろうはずもありません。旅費は自弁という示達でありました。このことがいっそう移転を不可能にちかづけたのです。
「如何にしても白石だなんて遠くさ行けそうもないからハ、しかたなぇ南部家の祿を離れることにしたあんす」
 藩士をすてて浪人となるのですから、まさに悲嘆と失望の選択です。
 およそ四千人の盛岡藩士ですが白石移転を決意したのは、わずかに二百人ほどで、大半は南部家と縁故のつながりのある者だけです。しかも実際に決行した者は、およそその半分だったということです。ほかはみな泣く泣く浪人を決意したのです。
「ここで浪人となるくらいならば、やっぱりあの時(敗戦直後)に潔く討ち死にしておった方がましだった」
 盛岡藩士たちがくやむのには次のようなわけがあるのです。
 敗戦を迎えて秋田から盛岡に引き上げた時に、当然ながら勤王派を貫いた八戸弥六郎が政権の座に復帰して敗戦処理にあたっておりました。そのときの弥六郎や目時隆之進からうけた逆賊としての仕打ちに憤激したのが盛岡藩士でした。
「亡国となったいま、朝敵よばわりされて生き恥をさらすくらいならば、城を枕に討ち死にすんべ」
「ほにさ、死に花を咲かせ、南部武士道をみせてやんべぇ」
 あのとき必死になだめにかかったのが八戸弥六郎と目時隆之進でした。
「これはすべて楢山佐渡の心得違いでおこった戦争でがんす。首謀者は楢山佐渡ひとり、殿様や一般諸士にはなんの責任もなければ、おとがめもあろうはずはながんす。このうえはなにごとも恭順専一にしておれば南部二十万石にも障りない、心得違いして自らお家を滅ぼすようなまねをしないでくれ」
 ところが、いよいよ盛岡城に官軍が入り込むようになるとどうでしょう。藩主利剛も嫡子彦太郎利恭も、人質同様に東京に連れていったのです。
「なんでもお殿さまや彦太郎さまも、金地院に閉居を強いられているそうだ」
 なんの障りもないといった祿高は、二十万石から十三万石となって遠い白石への転封です。しかもその知行割りには、目時が参画したらしいのです。うわさが広まるにつれて、盛岡藩士たちの落胆も憤慨も大きくなるばかりです。
 やりどころなない憤懣は勤王派にむけられます。
「こんたになってしまったのは、元はといえばすべて弥六郎や目時のしわざだ。己ぇの栄達ばり謀って、城地(領土)も、殿さんも藩士らをも売ってしまったのだ」
「なに祿さえすてれば、どうせただの浪人の身だ、なにも畏怖ぇことはなぇ。目時が盛岡に戻ったらぶった斬ってしまえ」
「そんだそんだ、破れかぶれの頬っかぶりだ、弥六郎も一緒だハ。このままでは佐渡さまばりが不憫だべな」
 ふたりの誅戮計画はひそかに旧藩士たちの間で具体化されていきました。目時が盛岡にもどったら、しめしあわせて弥六郎もろとも決行する手筈です。
「大変でがんす。旧盛岡藩の浪士たちが、ぶった斬る相談してるんすよ」
 遠野藩兵のひとりが、弥六郎のいる二の丸館にかけこみました。
「ぶった斬るって、だれを?」
「殿様でがんす、弥六郎さまでがんす」
 この動きを察知した弥六郎済賢、東京麻布の下屋敷へ速馬を走らせました。
「やはりそうか、弥六郎どのや目時どのをこのまま重臣にしておいては、旧藩士たちへの刺激があまりにも大きすぎるか…。両名とも、執政職お役御免としよう」
 東次郎の決断でした。浪士らによる弥六郎、目時の誅戮事件などが生じて新政府に知れることになっては事が面倒になります。
 罪状は、ふたりとも執政官として疑うべき廉ありというすじでありました。
「弥六郎済賢と目時隆之進の両名に隠居を申しつける」。
 この事実を国元盛岡に伝達しておけば、ひとまず旧藩士らも鎮静するであろうという東次郎の思惑だったのです。
 幽閉中の佐渡さまが耳にされた、
「目時隆之進が麻布藩長屋に幽閉されている」
という情報は、こういった事情あってのことだったのであります。
 やがて、盛岡城にいる弥六郎にお役御免の示達がありました。
「遠野の館へもどり隠居されよ、後継者には嫡子邦之助義敦をあてよ」
 わずか十五歳の邦之助に国譲りして隠居することになりますが、弥六郎には東次郎の意図がわからぬではありません。
「受諾申した、ついてはこの弥六郎が願いの儀、ぜひおききくだされたく…。
 ひとつには、このたびのわたしの失職処分の儀、しばらくの間わが遠野藩兵らには内密にしていただきたく…」
「なにゆえに」
「遠野勢わずかに百五十人なれど、終戦処理のため上盛以来これまで勤王の誠をもって勤めてまいりました。貫きとおした報国のよろこびを、みな(主従)でかみしめながら、家族が待つ遠野へは笑顔で堂々と凱旋させたいのでがんす」
「その儀、あいわかった、でもうひとつの願いというは?…」
「おそらく佐渡は極刑を免れないでござろう。もし死刑の沙汰ならば、ここ盛岡で執行させるように取り計らっもらえないだろうか。弥六郎が最後の願いとして、東次郎どのへ言上たまわりたい」
 ほどなく真田藩と戸田藩の兵隊が盛岡城に入ってきました。
「きょうから俺ぁたちが城ば守るがえ」
 事情を知らない遠野藩兵の隊列は、
「遠野は官軍なのだから、そのうちご加増もあるに違いない」
 と、意気揚々と国元へ引き上げていきました。
 明るく勇む藩兵らとは対照的に、世が世ならば盛岡藩元老ともいうべき鞍上の弥六郎、いったいなにを思うのでありましょう。
 いまは、一年前に盛岡八幡宮の馬場での「武者揃い」に南部軍大隊長として閲兵、全軍を檄されたときの片鱗すらもみえないのでありました。
 傾きかかった陽を浴びる背中に、一抹のかげりを見せながら盛岡(遠野)街道を東へ去っていきました。
 さて、目時隆之進の場合はさらに惨めでありました。
 藩の重罪犯取扱いとして仰々しく、御徒目付の藤森泰一郎、佐藤昌蔵らの監視を受けながら盛岡に護送されることになったのであります。
 藩境の黒沢尻駅に、目時貞次郎(隆之進の息子)が出迎えておりました。
 彼の話によれば、一両日中に隆之進帰藩の情報はすでに城下に広まっておるというのです。
「して浪士らの動きは?」
「浪士の数もおびただしい人数にふくれあがったもようでござんす。お役御免の処分の有無にかかわらず如何でも斬ると、えらい剣幕なそうで…。いまは、暴士がどこさ出現もおかしくながんす。ここから北へは一歩もすすめる状況にはながんす」
 結局、その日は黒沢尻の豪商『鍵屋』に宿をとりました。その晩、隆之進はおそくまでかかって何通かの書状をしたため、翌朝には息子貞次郎にあずけました。
「即刻に発って、東京の東どのの元へこれを届けるように」
 事件は、その日の夕方に起きたのであります。隆之進は自らの腹を切り、その血で行灯に「尽忠報国」と血書して果てたのでありました。
 東京麻布の幽閉先で佐渡さまは、この事実を耳にされました。
「そうか、そうだったか。あの目時が…」
と、このときもひとこと申されただけでございました。
 
長い間のご愛読まことにありがとうございました。
「小説・楢山佐渡」は読者のみなさまからのご意見、ご感想をもとに、
内容を大幅に改編して、近日中に北の杜文庫として発刊いたします。
発刊の時期が決まり次第、当HPでご案内する予定です。
小さな一冊 発信
北の杜編集工房
〒980-0803
仙台市青葉区国分町3-1-4 ムサシヤビル4F
TEL022-222-6309
FAX022-222-1142
Copyright (c) 2005 Kitanomori Editorial Office All Rights Reserved.