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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
十一、戦後処理
 
(一)東京護送
  南部軍降伏が決まるや藩主利剛の名で、楢山屋敷に閉門謹慎の沙汰がありました。
「お父上、こんどの戦ぁ、だんなさまの軍が敗れたそうでござんす」
 なかは、佐渡さまが秋田遠征に立たれてからというもの、ただの一日も欠かさず、初代光行公をまつる南部家の守護神社である桜山さんへ通いつづけました。
「そうか、やはりそうだったか。だがこれは形のうえの軍配じゃ」
「……」
「真の軍配は後の世にあがろう。負けた者の屁理屈だと思うだろうが、武力による軍配は時の運でもあるべさ。なか、涙ぁ見せるじゃなぇ、決して五左衛門は喜ばなぇ」
「わかっておりあんす。でも、だんなさまぁ、如何になるんでござんすえん」
「如何になるとも五左衛門、こたびの戦の責を一身に負わねばならない。敗れたといえ、おまえも武将の妻として、その名を辱めぬよう心せねば…」
「はい…、でもなにができるんでござんすえ、わたしに…」
「耐えることじゃ、耐えぬいて子どもたちを育てあげる、それしかなぇべぇ」
「どこまでも、この沢田弓太がみなさまのお側にいてお守りしあんすから」
 楢山屋敷は閉門中ですから、佐渡さまの安否の報がいっさい入ってこないのです。いま北山の報恩寺に幽閉されていることも…。
 なかは、佐渡さまの下帯なども用意しておりますが届けるすべもありません。かりに居所がわかったとしても、用人の弓太といえども外出が適わないのです。
 十一月八日、東京の新政府からの命令をたずさえて、監察使藤川能登が兵七百余を率いて盛岡城に到着しました。
「松平容保追討付、至重之蒙二 勅命一 候処、窺二 両端一 持 シ、賊徒 ニ通 ジ、遂反覆屡々王師抗衝。恣 ニ箱館守禦之番兵引揚、剰自焼二 官舎一 逞二 凶暴一 。今般雖レ 及二 伏罪一 、天下於大典其罪難二 差置一 。依レ 之城地被二 召上一 於二 東京一 謹慎仰付候事。但、叛送首謀之家来、早々取調可申出事。南部利剛」(『南部史要』抜粋)。
 これは、藩主利剛に対する明治政府からの断罪書です。
 南部利剛が会津征伐の勅命を受諾しておきながら、後になって背いたということで、その罪を数え、罰として城と領土を没収して謹慎を命じております。また戦の責任者を取り調べて届け出よというものであります。そして次いでの沙汰です。
「今般、城地被レ 召於二 東京一 謹慎被二 仰付一 候処、出格至仁 ノ思召 ヲ以 テ家名被二 立下一 、更 ニ十三万石下賜候間、血脈之者相撰早々可二 願出一 事。但、土地之儀追而被二 仰出一 候事。南部利剛」(『南部史要』抜粋)。
「東京にて謹慎仰せ付けらる身であるが、朝廷よりの格別の思し召しで家名をたて、さらに十三万石を下し賜るので後継者を選んで届け出よ」
というのであります。
 東京にて謹慎の藩主南部利剛と、後継者としての世嗣彦太郎(当時十四歳)、奸徒重罪の者としては主犯の楢山佐渡さま、それに佐々木直作、江幡五郎を加えて東京に護送することになりました。
 秋田の戦にも参戦した勘定奉行の佐々木直作は佐渡さまの側近の奸として…。
 また、江幡五郎は仙台藩家老但木土佐とともに奥羽同盟成立の陰謀をはかった罪ということであります。
 佐渡さまら三名、いよいよあすは戸沢藩(新庄)に引き渡されるという前日…。
「佐渡どのには、今度はいつお戻りになられる盛岡か、もしお会いしたい方がござれば申し出よとの弥六郎どのからの内密の沙汰でござんす。ご家族が一番かとは存じますが、軍務局からのお達しでお屋敷の者はたとえ奥様でも許可にならないそうでござんす。もし、佐渡どのがお望みならば弥六郎どの自らがお会いしても…と」
「いや、弥六郎どのには会わない…」
 きっと弥六郎の方が佐渡さまに会いたいのです。
 家族との面会が適わぬならば、義理とはいえ兄弟、いま会っておかなければ悔いを残すだろう、せめてやさしいことばの一つもかけて送ってやりたい…。
 そう思ったのでしょう。ああ見えても照れ屋で、憐情深い一本気な男でなのです、弥六郎は…。
 だが、いま佐渡さまは弥六郎に哀れみを乞いたくはないのです。
 佐渡さま今生の別れとなれば、お身内のほかに誰があるのでございましょうか。目をつむられて、じっと考えておられました、が…。
「適うならば、十三日町の茂助に会いたい」
「なに、あの割烹茂助の老亭主でござんすか」
「そうです、茂助の手料理を口にしたい…」
 佐渡さまは、なかなか料理にはやかましい方でございました。これまでも自宅で客をもてなすときなぞは、わざわざ中津川を隔てた十三日町から老板前を呼び寄せて包丁をとらせることがしばしばございました。
 さっそく茂助がやってまいりました。料理の重箱のほかに、小さな風呂敷包みを抱えております。
「これをお渡しするようにと、ご家老の弥六郎さまに頼まれんあんした。なんでも、なかさま(夫人)からの書状も入ってるそうでござんす」
 やはり弥六郎、密かに楢山屋敷に使いをやり、事情を話してなか夫人からあずかってきた物、きっと下帯などでありましょう。
「お父上もしごく(至極)げんきにござ候えばご休心くだされたく候、さだ、うら、たねは必ず必ず、このなかがお守りいたすべく存じ上げ候、くれぐれも御身ご自愛くだされたく願い上げます、取り急ぎかしこ なか」
 なか夫人の簡単な走り書きではございますが、佐渡さまに心痛をかけまいとする万斛の思いがあふれてございます。
「茂助どん、旨かったよ。今生に一度おまえの料理で食事をしたいと思ってな。これで思い残すことはない、もう会うこともないかも知れないが達者でな」
 茂助は、かえすことばもなくその場に泣き伏したのでございます。
「茂助どん、機会があったら父上に伝えてくれないか、五左衛門は元気だったと…」
 実は、いまいちど茂助の手料理をいただく機会があったのでございました。
 翌年六月、再びここ報恩寺に送り帰されたおりに、茂助がお重を差し入れたのでありました。その時は佐渡さま病んでおられましたが、
「これは、茂助のうな重(鰻)に違いない」
 と、いつもより少し多めに食されたということにございます。
 藩主父子には正義勤王の家来者として三十一名の者が随従を許されました。ほとんどが反同盟論者たちです。まず、家老復帰の東次郎、それに安宅正路、遠山礼蔵、野田丹後です。
 佐渡さまに反抗して長州藩に走り、盛岡藩の降伏と同時に復帰し家老となった目時隆之進も加わっております。
「十二所村の戦線で俺の姿を見たときぁ、佐渡も魂げだべ。こっちはエギリス製のアームストロング砲だ、あのときに佐渡をためて(狙って)ぶっ放しておけば一発でオジャンよ。したども武士の情けで、陣地はるか後方に撃ち込んでみせたもんだから、南部藩自慢の馬上槍隊も…ハ、動けなぇべ。佐渡もえらい貧乏くじ引いたものよ」
 だれかれなしに喋りまくる豪語談だが、目時にたいする藩内の目には冷たいものがありました。かえって佐渡さまへの同情が深まるばかりです。
 それはそうです、政見、思想を異にしたとはいえ、藩をあげて突入した戦に、自分ひとり敵側につき祖国(藩)討伐に手を貸すとは…。
 しかも今度は、しゃあしゃあとして執政の座につき、佐渡さまに縄を打つなどどうして藩民の支持を得ることなどできましょう。
 十一月十二日、夜半に降ったのでしょう、明くればあたり一帯白い薄化粧です。雪はやんだとはいえ、巌鷲おろしの肌寒い風にときおり粉吹雪が舞っておりました。
 佐渡さまらの東京護送のお籠が三基、報恩寺の山門を出てまいりました。
 北山から新山船橋までの通りを、奸徒見せしめとして、口轡(竹管)を咬まされ、唐丸目籠(囚人護送用)に、手錠も足枷も丸見えのまま乗せられて市中を引き回されるというのです。
「あまりにも不憫な、佐渡さまぁ…」
 だれが、佐渡さまを敗戦の奸と憎むのでありましょう…。もしも勝ち戦だったならばどうしたのでありましょう、その立場を思うとたまらないのです。
「佐渡さまぁ…、佐渡さまぁ」
 見送りの涙、涙の列が、六日町から穀町に、川原町にとつづきます。慟哭ながらお籠に掌を合わせる者もおります。
 夏の大雨で壊れ果てた新山船橋はまだそのままです。佐渡さまたちは仮の船着き場から船上の人となりました。
 巌鷲山はすっかり雪に覆われておりました。
「さらばじゃ、わたしのお山…」
 佐渡さまは、開くことのかなわぬ口唇をかすかに動かしました。
 北上川の両側に静かに流れいくたたずまい、いくたびとなく見慣れた風景ですがこれが見納めとなるのかもしれません。
 生きて再び故郷の山川にまみえるとも思われません。
 東京までは、長い道のり…。
「ありがとう、なか…なか…なか…」
 なか、それは愛しい妻の名…。佐渡さまは何度その名を口ずさんだことでありましょう。ふところには、なかからの書状をしのばせているのでございます。
 ようやくに東京です、千住の小塚原(有名な獄門場がある)を過ぎるとき江幡五郎は死を覚悟されて、次の一詩を詠んでおります。彼は、このほかにも『幽囚日録』に多くの詩を残してもおります。
 殉節誰人報主恩 檻車縛甘入都門
 何日来不知梟首 雨衝横過小塚原
   義に捨つる身を誰か惜しまん 縛られていま都門に入る
   梟さるる日のいつか知らねど よこざまに雨つく小塚原(著者意読)
 佐渡さまにしても、きっとこんな感慨だったに違いありません。
 十二月二日(新一月十四日)…。佐渡さまらのお籠は、東京に入られましても、南部藩邸には入ることを許されませんでした。
 いったん新庄藩邸に身柄を渡されてから、そのまま南部藩菩提所である芝の勝林山金地院(臨済宗、港区芝公園)にひきとられました。
 前後して金地院に到着された利剛父子とは、別々の部屋をあてがわれ顔を合わす機会もなく謹慎して沙汰を待つばかりでございます。
 
(二)佐渡幽閉
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