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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
十、盛岡降伏
 
(三)敗戦処理
  佐渡さま、和議を申し入れたが受け入れられず、大館城の佐竹大和の指示にしたがいケサガケ(袈裟掛峠)の国境をたてて土深井から撤退を開始しました。
 ところがです、秋田軍は「覚えたことか」と激しく追い討ちをかけてくるのです。南部方につぎつぎと死傷者が出ます。今回の戦の全体を通じてもここでの死者が最も多かったくらいでございました。
 現在、鹿角街道に沿って南部衆の墓といわれる石塔がたくさんあります、みなこのときに討ち死にした者たちの墓でありましょう。
「しかたがない。撃ってくるなら、こちらも撃て。撃ちかえしながら退去せよ。かまわぬ、この佐渡が命令じゃ」
 それは、激しい迎撃戦となりました。
「和議を申し込んでおいでがらに、戦ぁしかけるとはつらつきぇなぇ(図々しい)。へでば和議とはぼがかたり(うそ語り)だが」
 秋田軍は居丈高に抗議してくる始末です。
 とにかく南部軍は追いすがる敵と戦いながら退却して、やっとのことで十二所館までたどり着きました。もはや南部軍、ここに進退窮まったのでございます。
「すみやかに降伏使者を派遣するように」
 佐渡さま、ここを最期と指揮しながら防戦、鹿角の本陣へ使者を走らせました。その間にも死傷者が増えつづけます。
 二十四日、三戸式部、盛岡藩士ではあるが直接的には無責任の立場にある者として正式の謝罪使となって鹿角からかけつけ、改めて降伏を申し入れたのです。
「式部どの、このとおりじゃが」
 佐渡さまの鉢巻きは鮮血に染まってございました。握っている朱に染まった手ぬぐいは、きっとあれでございます。佐渡さま出陣の朝に、なか夫人が門口でそっと手渡されたあの手拭い……。
「おいたわしゅうござんす」
 三戸式部というは、かねてから京の岡崎屋敷(南部藩邸)にあって佐渡さま上洛のおりに世話などしてくれたあの南部藩士……。大坂で別れて以来の再会です。
「こたな所で、こたな姿で会うとは面目もない」
「ご苦労さんでござんした」
 これより先、そのまま京都にとどまって皇居の警備にあたっていた三戸式部……、
「伊達と上杉は勅命にそむき会津にくみして官軍に抗するにより、盛岡藩は官軍とともにこれを討つよう、その旨を本国に伝えよ」
 七月二十九日、朝廷に呼ばれて命じられたのであります。
 このころ、すでに佐渡さまは秋田へ向けて進軍を開始していたのですが、式部はそんなこととは知りません。急きょ京都を発って大坂からの船に乗って帰国の途についたのです。ところが、海上は連日荒れて思うように船は進まず、ひと月も費やして宮古港に着いたのは九月十五日です。
 ただちに盛岡にかけつけたのですが、すでに戦は始まっておりました。結局は式部の帰国も水の泡となってしまいました。
 いいえ、この男の帰国がせめて開戦前ならばというのではありません。それどころか、間に合わなくてよかったとさえ思います。
 もしこの勅令を進撃開始前に受けておりましたなら、どんなにか佐渡さまが苦しまれたことかと思うからでございます。
 秋田藩は、三戸式部が申し入れた降伏状をこんどは正式に受け入れました。
 ただ、藩主利剛さまの嫡子南部彦太郎さまと佐渡さまの二人が、横手に駐在の九条総督の陣門におもむいて正式に降伏の旨を言上するようにと求めてきたのです。
 佐渡さまは、さっそく南部彦太郎さまと連れ立って九条総督陣屋へ、いいえ、佐渡さまは禁錮の形式でございます、鋼のおからだに荒縄かけられての出頭でございます。
「やあや、きたか朝敵……。どうした、佐渡とやら、うん降参かのう」
「……」
「おそれながら申しあげまする。臣利剛、会津の容保ご討伐との令により盛岡藩は、すみやかに出兵つかまつれども、あのとき会津藩謝罪の儀ありて仙米(仙台・米沢)両藩周旋につきつい同盟の動きにしたがってしまいました。またこのたび、同盟よりたびたび秋田藩進撃の催促ありて、意に反してついにしたがい進撃いたしましたれども、臣利剛、ゆめゆめ朝廷への背反の心なく、ありたるはひとり逆臣楢山佐渡のみ、その首謀者佐渡をかくのごとくに禁錮して差し出し、降伏謝罪の証しといたします。なにとぞ寛大なるご仁恵のご沙汰をたまわりますれば、臣利剛が長子彦太郎、有り難き幸せにぞんじあげまする」
 南部彦太郎さま、十四歳でございます。すべて筆頭家老の八戸弥六郎が起草の台詞、全文をそらんじての言上であります。
 佐渡さま反逆者の身なれば、弁明の余地もございません、無念でありましょう。仙米両藩のせいなどにするは武士の道とも思われません。すべて佐渡さま真の勤王としての意志なのであります。もし佐渡さまに一言でも陳述の機会がありましたならば、
「薩長は官軍にあらず、真の勤王にあらず」
 と、申したいのであります。
「麿が盛岡滞在にあっては、貴藩より一万両の献金がござった。あるところにはあるものじゃのう。今度は、どうじゃろう数をめでたくあわせて七万両では、なに当座の補償金じゃが、一ヶ月の猶予をもって十一月に至までにじゃ、麿が命令じゃ。これを承知ならば、貴藩が降伏の願いを受け入れるぞ、また、佐渡の帰国も赦すでのう」
 なにを基準として、めでたき七万両なのでございましょうか。
「七万両たしかに献金お約束申しあげます」
 彦太郎さま、七万という数値わかってのことでございましょうか。
 一方、武装解除して現地解散となった南部藩兵たちはさんざんの体(てい)で、九月末から十月初旬にかけて続々と盛岡に帰ってきました。
 ところが、盛岡城にいるのはほとんど遠野藩兵ばかりです。
「お前ぇ達ハ、王師に刃向かった朝敵だすべ、みな逮捕するあんちゃ」
 片っ端から捕縛して身分に応じて座敷牢、親類預けなどと身柄が拘束されていきます。手際よく指示しているのが八戸弥六郎です。
 遠野藩士たちの喜びようといったらありません、朝敵となった盛岡藩士を処罰できる立場にいるということは、今度の戦に当初から一貫して反対して一兵も出さなかったからできることなのです。
「弥六郎さまのおかげで、俺ぁたちも、天子さまの兵隊ぇだづことだ、ハ」
「戦こもしなぇで官軍が、遠野はついてるっつことだ、まるで棚から鏡餅よ」
「それを言うだば、棚から牡丹餅(ぼたもち)だべ」
 憤慨やるかたないのは、不当な処分を受けている盛岡藩士たちです。
 敗れたとはいえ、食うや食わずで命がけの戦をして、九死一生の危機をくぐり抜けてきたのです。それなのに、労(ねぎら)いのことばひとつないのです。
 負傷者をかばい肩抱き合う二人三脚姿の者たちも多くいるというのに、救済所を用意して手当してくれるわけでもないのです。
 それどころか、帰還するなり、いきなり謀反あつかいされるのですから激怒するのも当然でありましょう。
「秋田戦線さ、ただの一兵も出さずに高見の見物をしていた遠野衆に、官軍きどりで大きな顔されるのは如何(なんじょ)でも胸くそがわるぅ」
 町人たちも、おもてに遠野藩士の姿が見えたりすると身を隠してしまいました。
 常ならばにぎわう紺屋町、呉服町あたりも軒並み戸を閉め切っているのです。
「戸外さ、出はるなよ」
 子どもたちだって、家人から外出を止められているありさま……。
 いよいよ官軍と名乗る軍隊が盛岡に入ってきます。
「十月九日諸道の官軍初めて盛岡に入る、これより前降伏謝罪の事決し我軍既に引き揚げたるに拘らず、秋田、津軽の兵国境に侵入して或は放火し或は発砲す…略…雫石橋場口に侵入せる秋田軍の如き…頻りて我に発砲…兵を解かんことを乞ひしも聴かず、罪を謝せんとせば…悉く武器を献ずべしといふ。(「南部史要」より抜粋)」
 武装解除の南部藩より接収した武器は、記録によれば大砲百八十六門、和洋小銃六千六百三十八挺、大小弾丸一万九百十八個、その他雷管火薬、小芥子、火縄など……。さらに大砲は、地方配備のものもあわせると三百二十三門といわれます。
 官軍が盛岡に入るという当日(十月九日)、南部藩の使者として雫石の橋場まで出迎えているのは、なんと目時隆之進です。佐渡さま京都からの帰国のおりに大坂で脱走、長州藩邸に身を投じたあの男です……。
 秋田戦線十二所村では、佐渡さま目の前の敵として発砲してきた男……。
 南部藩が、墜ちたとみるや素早く盛岡に帰り、官軍と連絡をはかりながら弥六郎に協力して戦後処理にあたっているのです。実に身の軽い男であります。
 弥六郎も、城外日影橋の外まで出迎えました。
 奥羽鎮撫副総裁沢為量が率いる官軍の一隊は、茅町より材木町、三戸町、八日町と行進してきます。
 若い隊長が指揮する少年鼓笛隊を先頭に立てて、鳴りもの入りで市中に姿を見せたのが、いまは官軍となった秋田藩兵でした。
 しかし、冷たい木枯らしが吹きすさむ通りには、人の姿はおろか犬猫の影すらないのです。ときおり、褐色の枯れ葉が渦をなして、行進する隊列の足元に襲いかかったりておりました。
 町の人々はみな、終日門を固く閉ざして悲憤の涙にくれながら、たとえようもないほどの屈辱感に沈んでおるのでございましょう。
 佐渡さまが、盛岡にもどられたのは、翌十月十日も薄暮の迫るころでありました。横手から、ずっと三戸式部がそばに付き添っておりました。
「佐渡どの、そろそろ夕顔瀬橋でござんす」
「もう、みな(藩士)は家族のもとへ戻られているのかな」
 盛岡城のある不来方の森がいよいよ宵闇に包まれて、御三階(天守閣)の影がかすかに黒ずんで見えておりました。
 出陣のときには佐渡さま、二千余の軍勢の先頭になり陣羽織姿で馬上にございましたが、こんどはひとり荒縄かけられたまま屈辱のご帰還でございます。
 愛しい家族が待っている楢山屋敷に立ち入ることも許されず、直接に幽閉先の報恩寺でございました。
 
十一、戦後処理(一)東京護送
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