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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
十、盛岡降伏
 
(一)雫石口苦戦
  年号は九月八日に改元されて、明治となっておりました。
 明治元年九月二十日の夜です、佐渡さまただちに将士を集めて軍議を開きました。
「奥羽列藩みな降伏とあらば、戦はもはやこれまでじゃ、藩公のご意志にさからってまでつづけるわけにはいかない。
 だが、われわれが戦った真の目的は、薩長の新政府は勤王にあらず、奥羽同盟こそがまことの勤王だと信じたからであり申す。
 優勢なる西洋兵器とおびただしい大軍に抗しきれず、ここに敗戦をむかえるに至ったが、これまで耐えて善戦の諸士にあつく礼を申しあげる。
 敗れたとは申せ、われわれの存念は後世に必ずや明らかにされることであろう、わたしはそれを信じたい。
 敗戦始末のため蔵人どのをはじめ幾人かの者と一緒に、わたしは残留することになるだろうが、いずれ軍事体制は現地で解くことになる。その後の諸士は、それぞれに帰還(復員)の準備をして新政府からの指示を待たれよ。こたびの遠征、国では家族の者がどんなにか案じておられよう」
 蕭条たる雨音にまじって兵士の号泣する声が聞こえておりました。
 雨に煙るかなたに赤く映るのは、敵陣で焚く篝火か……。
「今般、従京都重臣三戸式部帰国、朝廷御内命之儀 モ有之 ニ付、進軍相控候間、尊藩 ヨ リ モ御進撃御見合可被下候、委詳は追 テ可及御応接候条、此段不取敢得御意置候様、従盛岡表 ヨ リ申付越候、以上」
 九月二十一日に佐渡さまと向井蔵人連名で、敵の将である佐竹大和あてに書状を送り、休戦を乞うたのでございました。
「いきなり侵入しておりながら、戦況不利とみての休戦とは片腹痛いがし」
 その日のうちに届いた須田政三郎、佐竹大和連名の簡書は、
「今般従京師御重臣三戸式部御帰国、朝廷御内命之儀 モ有之 ニ付、御進軍御控被成、幣藩 ヨ リ モ進撃見合可致、委詳可及御応接旨被仰越得其意候、此節之次第は貴藩 ヨ リ幣藩 江被及御侵入候 ニ付、朝廷 ヨ リ官軍被差下候、同様征討之為蒙仰義 ニ御座候、右 ニ付、進撃見合之儀 ハ難及御挨拶候得共、朝廷 ヨ リ御内命儀 ニ付、御応接被成度義 ニ候 ハ ハ、御兵隊幣境より御引取之上、国境 ニ於 テ可及御応接候、右御報可得貴意、如斯御座候、以上 秋田軍」
「こたびの戦は貴藩からしかけたもの、そのために朝廷から官軍をさしむけて討伐にあたるもので、貴藩の都合で勝手にやめるという訳にはいかないだろう。
 しかし朝廷からの御内命というのであれば仕方なく相談には応じるが、それにしてもまず国境まで撤兵されよ。応接はそれからである」
 と、いうものであります。
 そうなれば、ケサガケ(袈裟掛峠)まで退くことになります……。
 国境と申しますと、もう一つの峠を忘れてはなりません。
 話は前後しますが、雫石口から攻めたあの沢田隊はいったいどうしているのでありましょう。
 七月二十七日、佐渡さまらと一緒に出陣式を終え盛岡八幡より出陣の沢田隊は、沢内警備隊の一部と合流して、先月から雫石に駐留しておりました。
 目標は、田沢湖沿いに横手平野に出て秋田をせめる仙台軍と合流するというものであります。
 しかし、この道は秋田には近いが険阻な道でございます。おいそれと横手に進入などとは初手から考えられないことではあります。
 いくらかでもこの方面に敵を引きつけて、佐渡隊の進出を助けようというのでありましょう。その証拠には兵力が違いました。兵数わずかに二百たらずです。装備といえば旧式の火縄銃と木砲でございました。
 しかもこの道は馬がとおれません、兵糧の運搬はすべて徒歩の人夫に頼るしかありません。遠征する場合の兵隊の背中は最大限で、せいぜい穀物三升が限度、食ったら十日と持ちません。
 沢田隊は、険しい道と兵糧に苦しむことになります。
 仙岩峠道は、秋田側からの越境は割に易いが、南部側からは急坂が多くて難儀なことはすでに知れてはおります。ともかく沢田隊は雫石から橋場に進み、八月二十三日に秋田領となる源次郎平まで進出しました。
 番所につめている数名の兵、兵とはいっても鍬鎌を武器とする農兵です、これは難なく追いはらって占拠……、戸数二、三十の小さな集落ですが、数日ここに滞在……。
 そのうちに、二番隊として野々村真澄が率いる二百人が到着しました。援軍増強に味方の意気はいよいよ揚がり、二十八日には秋田街道に通じる要所の下河原長根を激戦のすえに攻め落としました。
 だが困ったことには、野々村隊は兵糧ひとつ持参していません、現地調達の予定だったのですが、ここは敵地の山の中、民家には保有の食料などまったくありません。
 いまは沢田隊の兵士が持っている兵糧もすっかり底をつき、
「あしたは、如何(なんじょ)かして捜すべし」
 と、夕飯を抜いて野営した翌早朝でありました。
 敵からの不意の攻撃に遭ったのです。空腹のままの戦いですが、多くの死傷者をだしながらも、野々村隊旗本の奮闘で敵を追いはらうことができました。勢いづいたわが軍、逃げる敵を一気に追撃して生保内村を占領してしまったのです。
 ここは民家四、五十軒という村でしたが、
「秋田の兵隊どがせ、きんの(昨日)かっつぁらってた(集めて行った)へで」
という始末……。もうまる二日、飲み水以外に食物らしいものは口にしていません。
 夕方になって小荷駄が届いた……、小荷駄といっても馬が利用できない道のこと、四、五人の人夫の背で二斗俵を一俵ずつ背負ってきたものです。
「腹が減っては戦ができぬ」
 ひさしぶりに飯が食えるのです。さっそく米を分配してあたりの民家から鍋を借りたりして、焚き火を囲み雑炊つくりにとりかかっていたその時です。
 敵の夜襲でございました。暗闇の中から矢や鉄砲を射かけてきます、応戦のしようもなくわれかちに逃げ惑うばかりです。
 激しい空腹と戦い…、
 追撃する敵と戦い…、
 九月二十八日です、橋場までたどり着いたときには兵わずかに二百……。
「奥羽同盟列藩ことごとく官軍に降参したので、すぐ盛岡に引き揚げよ」
 ここで敗戦を知ったのでございました。
 しかし、戦闘は終わりませんでした。
「これが舶来の三連発銃じゃけん、その威力をみしゅうぞ」
 相手は南部藩が降伏手続中であることを百も承知です。長崎振援隊の強力な援軍を得て勢いづいた秋田軍、橋場に侵入し民家に火を放ち、しきりに南部陣屋に発砲するのです。一挙に盛岡へ進撃するつもりでありましょう。
「いま、十二所にて降伏謝罪の手続き中でござんすから、尊藩よりの御進撃をなにとぞお見合わせくださるように」
「うがど(汝等)がら攻めてけずがって、なにがど」
 と、勝ちほこったかれらには聞く耳がありません。なおも激しく銃撃してくるのでやむなく応戦、降りしきる秋雨のなかでの激戦は数刻におよびました。
 後日、これが「降伏手続中に錦旗に発砲」ということで問題になります。
 鶯宿切留の横田某なる者が、
「親父から聞いた話でがんすが」
 にはじまる談ですが……。
「官軍ってへったたって(と言っても)ほんとのごどぁ、野良浪人や浮浪無頼のほえど(乞食)たがりの集団だったそうでがんす。とても兵隊とも思われないようなもよし(服装)で……、大将こそは陣羽織姿で白毛のシャグマ(赤熊)づものをかぶって、官軍さまだってへったづがなっす。
 官軍さまの名ぁ、肩に着てが、南部領に入るやいなや乱暴のかぎりつくすんだど。めぼしい家だとみるや土足でふごんで(入りこみ)、強盗まがいに手当たりしだいの略奪だったそうでがんす。また女とみれば、若ぇも年寄(としょり)もなんじょでもえぇはぁ、四十婆さまが孫の目の前で強姦されたそうでがんす、若干(びゃっこ)でも抵抗すればその場ですぐに斬られたづ話でがんす。村の人達(したず)ぁ家族を連れて山の奥さ逃げ隠れしたづが、こんたな哀れなことぁなぇんだなぁ、まんず」
 横田某の話はつづきます。
 御明神村(雫石)の肝煎(きもいり)で上野広左衛門という男、若者を集めて義勇隊をつくり、いまにいうゲリラ戦をしかけたのです。
 味方は地の理に明るいうえに、官軍とはいえ直接に自分達を苦しめている敵との戦いです、無頼官軍の兵よりはるかに勇敢なのです。多勢とみれば姿を隠し、無勢とみれば襲いかかる、これにはさしもの官軍も手をやいたようです。
 次の話がおもしろい……。
 橋場の熊(くま)という狩人が敵の大将を討ったというのです。
 この大将、ある農家の縁側に腰かけてキセルでタバコを吸っていたそうです。これを目にした狩人の熊が、シカおどしの鉄砲で薪小屋の陰から撃ったというのです。弾はみごと大将に命中して、背中から胸に抜けたというのです。
「えんにゃ(否)、ぼが(嘘)ではなぇ。俺ぁの親父がこの熊からじかに聞いた話なそうだ、ほとんど即死だったづども、さすが大将だけあって、ばったりど倒れてからタバコを二服も吸ったんだど、熊もたまげたづ。えんにゃ本当の話だ、この大将のお墓もちゃんと雫石のなんとかづお寺さんにあって、名前が大星権太夫だど」
 なにか疑わしい話ですが、年数が経つとこの種の話は、えてしてこうなります。
 戦はもう一つありました、野辺地戦線です。
 秋田軍の優勢が確定的となったのをみとどけた津軽藩は、奥羽同盟を離脱して秋田に通じておりました。だが戦場に一兵も送らずに、
「わだづ(我ら)も官軍」
 と、いうのも格好がよくないことでございましょう。
 藩主の津軽承昭さま、南部藩の降伏の報に接した九月二十三日……。
 降伏手続き中と知りつつ、野辺地守備の南部陣地へ不意に攻撃をかけてきました。
「待ってけれ、いま降伏処理の最中だから」
「そたらごど言(さべ)ったって、こっちさも都合があるはんで」
 津軽藩兵は強引に撃ちかけてきます。野辺地守備隊、やむなくこれと交戦し辛くも津軽軍を撃退したのです。
 しかし、勝敗はともあれ津軽藩はめでたく参戦の実績を稼いだのです。
 そして、南部藩には降伏後の抗戦という咎(とが)が重なってまいりました。
 
(二)遠野の事情
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