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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
九、秋田進攻
 
(三)同盟軍降伏
  佐渡さま、町役人を集めて秋田方の戦死者の遺体を引き渡し、新しい町政の指示をされました。さらに、負傷者治療のための臨時救済所を設置するなど、かれこれ十日ほども費やしてしまいました。
 陣中に盛岡藩主南部利剛さまからの感状が届き、いっそう意気が盛り上がります。
「今般羽州地進撃、佐竹重臣茂木筑後居館十二所令落去、則来、連日苦戦、遂 ニ同重臣佐竹大和居館迄乗取勝利候段、其功無比類候、尚、兵隊働之甲乙吟味之上 ニ及褒賞候う条、此旨一同 江可申達候慶応四年八月(日付欠)利剛(花押)
楢山佐渡殿 向井蔵人殿(『秋田藩討入之日記』盛岡市中央公民館所蔵)」。
「目指すは能代」
 九月二日……。ふたたび進撃という段になって、前身基地である前山の駐留隊が退却してきたのです。
「やぁ、こんどの敵は手強(おっかな)ぇ、鉄砲といえ大筒といえこれまでの秋田勢のものとは、ものぁ違う。大筒の威勢といったら俺ぁ、これまで見たことも聞いたこともなぇ」
 それはそのはずです、秋田危うしの報が全国にながれて、八月に入ってからというもの肥前、島原、大村、平戸、薩摩、筑前、松江などの諸藩の援軍が新兵器をひっさげて続々とかけつけてきたのです。
 英国製のカノンとか、アームストロング砲という大砲などは、その音響たるや山にとどろき地をふるわして、二町も三町も離れた所から撃ちかけてくるそうです。
 それに比べて南部軍の大筒なぞは、大砲ともよべません。
 なかには一度使えば砲身が破れてしまうような木砲もあります、その名のとおり木造の筒です。
 しかし、大館城の城門はこの大筒で抜いたのであります。
「鉄扉の近くに寄って、放て」
 先手にあった向井蔵人のとっさの指示で、城門の鉄扉を砕いて城内に突貫できたのです。もちろん、砲身も砲台もろとも砕けちり、火縄の点火手も火傷を負いました。
「薩長軍なにするものぞ、包囲して討ちまくり、その大砲をぶんどってしまえ」
「無理でがんす、ちかづけません」
「これは戦じゃ、もともと戦とは無理と無理の衝突、その無理とおさずに、勝利への道はない。能代までは城塞一つない下り道だ」
 この論は、佐渡さまが父(帯刀)のはなむけ(餞)でありました。
 急げば二日とかからない……、大館に蔵人隊を留守(予備隊)にのこし、能代街道を進撃したのであります。
 ところが、進発して間もない岩瀬部落で突如(いきなり)伏兵が起こったのです。気がつくと全軍は四方から包囲されております。
 岩瀬は周りが高い山に囲まれて擂鉢の底のような所です、もしも火攻めなどに遭えばどうにもなりません。地理的には、南部軍にとってはことごとく不利であります。
 さすが佐渡さまが旗本隊も、背後から迫る敵を辛くも討ち破って血路を開き、
「大館まで退け」
 全軍に後退を命じたのであります。
 だが、勢いを得た敵に隙間もなく追撃され、やっとのことでたどり着いた南部軍、そのまま大館城に包囲されてしまいました。
 秋田軍は、つぎつぎと西南諸藩からの援軍を得て、すでに南部軍をはるかにうわまわる総勢三千……。
 翌日、総攻撃が開始されました。三日三晩の激しい攻防がつづきます、南部軍は果敢に奮戦してやすやすと敗れはしません。
 しかし、敵を破ることも適いません。
 敵は南部軍の強固な防戦に手をやいてか、いったんは攻撃を中止しました。しかしその間にも敵の援軍は増強されつづけました。
 さらに八月末には、総督府救援のための特別編成東北遊撃軍将府として、三千強の大隊が海路新潟に到着していたのでございます。
 そして、こんどは本国南部と大館との連絡筋である山王平方面にも手を回し、輸送路の切断にかかったのです。こうなると南部軍の兵糧にも影響をきたしてきます。
 このまま兵糧攻めに遭うようなことにでもなれば、志気は衰えるばかりです。
「いったん城を出て引き返し、後詰めの援軍を待ってあらためて逆襲しよう」
 六日の夜の大館城、明々と篝火を焚き、空砲を撃ちならして進撃の挙動とみせて、じつは闇にまぎれて脱出を開始したのでございます。
 しかし、この作戦もすでに敵に察知されておりました。敵はどこまでも、南部軍の後尾にくいついての追撃です。
 退却はじつに難渋をきわめました。多くの死傷者をだしながら辛くも十二所村までたどりついたのであります。
 ここにも、すでに敵の手がまわっておりました。
「佐渡どの、敵陣で采配をふるっているあの男……」
 蔵人が指ししめす、野砲隊の指揮をしている敵の将とは……。
「おのれ、あれは隆之進ではないか」
 どうして忘れることがでましょう、目時隆之進です。
 佐渡さま上洛のおりに同行し、帰国の途中に大坂の宿で、わが子貞次郎を引き連れて脱藩し、長州藩邸に身を投じたあの男です。
 南部軍いま死闘をつづけ絶体絶命のさなかに……、東北遊撃軍の将として、こともあろうにかつて上司であった佐渡さまの前に、あちらの軍服姿で立っているとは……。
 佐渡さま、これまでに口にこそだしませんでしたが、たとえ意見を異にして脱藩したとはいえ憂国の士と信じその後の安否を気遣ってもいた目時隆之進……。
「絶対に許しがたい」
 当然でありましょう、いかなる事情があったにしても、佐渡さまを討つ前面の敵としてここに現れるとは……。武士の風上になんとやらでございます。
 目時には目時なりの苦悩があったとは思います……。脱藩も盛岡藩(南部藩)の危急を救う一念からでたもの、それは疑うべくもありません。しかし、いわば故郷(ふるさと)の将兵が、かつての同胞(はらから)が、いま悲風惨雨にさらされておりますときに、武士(もののふ)の道に照らして如何でありましょうか。
「おのれ、目時!」
 大声をあげて佐渡さま、太刀を抜かれて「きっ」と刃を敵陣に向けられました。
 あくまでも抗戦の意志です。
 これに応えてか、「さっ」と右手をあげる目時……。
「ドッカン!」
 筒から火を吹いた砲弾が、音たてて南部軍の頭上はるかに撃ちこまれました。
 これを合図に激烈な戦闘となるのであります
「……七日未明敵十二所を攻む、同所を警備せる南部吉兵衛、高野恵吉防ぎ戦ひ、佐渡また松山の兵を進め烈しく指揮したるも、支ふる能はずして沢尻に退く。十一日足沢内記兵を率て石淵に至る、敵兵迎へ戦ひ勝敗決せず交々退く。十二日未明敵兵来り籠屋、石淵、長根、高山を攻む、我軍敗れて退く。十五日向井蔵人兵を率ゐ石淵、長根の敵を撃てこれを走らす、この日佐渡進んで十二所を攻む、利あらず退いて沢尻に陣す。十六日葛原街道の敵兵来り攻む、佐渡出でて戦へるも地形便ならず終日苦戦し、日暮に及んで兵を収めて退く。十九日敵また来り攻む、佐渡支ふる能はず退いて土深井に入る。二十日未明兵を進めて戦う、勝敗決せず交々退く、曩(さき)には戦ふ毎に勝てるもの今は戦ふ毎に利あらず、兵士の意気大に沮喪(そそう・気力がなくなる)し佐渡も殆ど策の出づる所を知らず……(『南部史要』抜粋)」
「援軍をたのむ」
 これまでに、鹿角へ向けてなんど催促の速馬を走らせたことか……、しかし、いくら待っても後詰めの姿がありません。
 この日の昼下がりでありました、鹿角街道をこちらを指して駆けてくる騎馬が三頭……。しかし、待ちに待った援軍ではなかったのです。本国盛岡より届いたのは、驚くべき報道でございました。
「今般従朝廷御内命の廉も有之且奥羽同盟の列藩謝罪相願候趣申来此方にても右に準じ申出候含の事」
 奥羽同盟の列藩ことごとく官軍に降伏したというのでございます。
「わが軍もただちに和議を申し入れ、停戦して帰還せよ」
 なんとしたことでありましょう。
「盟主仙台はどうした、但木土佐どのがまさか……?」
「えんにゃ(否)、その但木さまが、会津の落城も必至と聞いて自ら官軍の本営におもむいて降伏されたそうで、もう五日ほども経ってござんす」
「そうか、若松城は落ちたか」
「たぶん落ちたと思いんす、すぐ近くの山で少年隊が敗れてからかれこれ一月(ひとつき)にもなりんすから」
 少年隊というのは八月二十二日、互いの刃に伏して飯盛山の露と消えたあの白虎隊のことですが、実際に落城したのが九月二十二日ですから、この日(九月二十日)はまだ孤立無援のなかで老幼婦女子にいたるまで若松城を死守して籠城、悲壮なまでの戦闘をつづけていたのでございます。
 八月末から九月にかけて同盟諸藩は続々と平定されていきました。河合継之助が率いる長岡藩も激戦のすえ、ついに潰れ北越は完全に官軍の手に帰しました。
 棚倉、三春、二本松の諸城も降りました。八月二十九日には米沢藩も降伏です。
 そして九月十五日には同盟の主唱者伊達藩も降りたとは……。
 佐渡さまは、暗然とされるばかりでございました。
 しかし佐渡さま、これからがたいへんでございます。
 戦は、始めるよりも終わらせるほうがはるかに難儀でございます。
 
十、盛岡降伏(一)雫石口苦戦
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