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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
九、秋田進攻
 
(二)鹿角口攻防
  昼の九ツ、八幡宮境内……。
 総勢二千余、秋田藩(久保田藩とも)へ侵攻の南部藩兵が勢揃いしました。
 軍装姿の総大将楢山佐渡さま、ひときわ目だってすでに鞍上にございました。
 白地の削ぎ袖に重ねて、濃紺の地に南部藩の定紋を金糸の刺繍であしらった、幅広い襟元の朱も鮮やかな陣羽織……。
 はかま(袴)は、銀の武田菱の定紋をちりばめた薄墨色の段袋(軍装ズボン)……。
 やはり武田菱文様の手袋と鷹野足袋(軍装用)……。
 脚には武者草鞋(むしゃわらじ)を結び、右手に白毛筋の采配……。
 赤い紐できりりと結んだ乱髪型の兜……。黒皮造りの吹返し……。
 武士然とした八の字美髯……。
 白晢にして端正な風貌、まことに凛々しいお姿でございます。
 身の丈五尺六寸余(約170センチ)長身の佐渡さま、なか夫人が藩中随一の美女ならば佐渡さまもまた藩中きっての美丈夫でございます。
 武運祈願、出陣式を終え、いよいよ市中へ……。
 先頭に総大将の佐渡さまと向井蔵人、二騎ならばれて進みます。佐渡さまの旗本隊六百につづいて蔵人隊六百、それぞれ騎馬隊、歩兵隊、鉄砲隊と、四列縦隊の堂々たる行進でございました。途中で夕顔瀬橋から雫石口に向う予定の沢田斉の大隊も後尾につきます。総勢で二千か三千か、およそ見当もつきません。
 沿道はたいへんな人だかり……。
「佐渡さまぁ」
「佐渡さまぁ、佐渡さまぁ」
 ひっきりなしに歓呼の声援であります。
 先頭の佐渡さまが上の橋にさしかかりましたが、後尾はおそらく八幡町を抜けきれてはいないでしょう、長い長い隊列でございました。
 まもなく一隊は、本町にさしかかりました。沿道の人だかりのなかに楢山一家の小群(かたまり)がございました。
 なか夫人の姿も、娘たちの姿も……。
「立派じゃぞ、五左衛門」
 声には出しませんが、したり顔の帯刀さま、身を乗りだしておられます。
「ととさま! ととさま!」
 幼いたね(太禰)も、声をかぎりに佐渡さまを呼びつづけました。
 その声がお耳に届いているのか、いないのか、佐渡さま凛として前方をみつめて動じません。
 あっという間でございました。佐渡さまの後ろ姿は、四ッ家町の方へだんだん小さくなっていかれました。
 めざすは国境鹿角口……、津軽街道を北に向けて堂々の進軍でございます。
 八月八日、秋田領に進入……。
 十二所(じゅうにしょ)館を守る茂木(もてぎ)筑後あて、形をただして次の書を送りました。
「一筆致二 啓上一 候。……(以下概要)九条総督、秋田転陣後の庄内再討伐命令は庄内藩に私怨を抱く薩長の意志によるもので、総督の真意ではない。貴藩はこれに同意し、奥羽同盟に離反するに至ったが、わが藩はその間罪のためここに軍を進めた。しかし、尊藩と幣藩とは旧来隣好の間柄でもあれば、干戈(かんか)を交えるは遺憾のきわみである。願わくはご深察のうえご改心され奥羽同盟の趣意にお立ち戻り、奸邪を除き、民の塗炭の苦しみを救い、天下のため真の勤王のため翻意されたい。……此段御隣好ニ付、右得二 御意一 候」
 驚いたのはここを守る茂木筑後……。秋田の主軸隊は庄内攻めにまわっているので、ここの守備はまったく手うすでありました。まさか、ほんとうに隣好の盛岡藩がここまで攻めてくるとは、ゆめにも思っていなかったのです。
「御手紙の趣、本城に進達するにより、数日の有余相成りたく……」
 翌九日の早朝、茂木からの返事でしたが、もとより返答を求めるものではありません。書状はそのままに宣戦布告なのであります。
 佐渡さま、すでに「無理は承知」でございます。
 正面の十二所館街道は佐渡さまを将として旗本隊五百五十人、先手の隊長は毛馬内忠五郎……。
 葛原(くぞはら)街道からは向井蔵人が将の六百人……。
「たとえ自説と異なろうとも、国難にさいして座視するは臣の道ではない」
 と、志願した番頭石亀左司馬は三百余人を率いて別所街道……。
 番頭足沢内記は三百三十余人を率いて新沢街道……。
 目付高野恵吉の二百余人、大葛街道を……。
 佐々木直作は目付兼小荷駄奉行として大館街道を進みます。鹿角郡に知行所のある中野吉兵衛も別軍を編成してこれに同行……。
 総勢二千余人、南部藩の総力をあげて秋田領へ進攻したのでございます。
 突然の進撃ですから、驚いたのはこれを目にした領民たちです。
「あれ見でみれ、兵隊(へぇてぇ)どだ(兵隊たちだ)」
「へばせ、こりゃ戦ぁだべが」
「そんたらごどぁ、おらぁ聞がなかったがえ」
 そのうち、銃声が聞こえだしたり、近くに斬りあう姿が見えるようになると、道ばたの草かげに伏して泣きだす者や、林のなかへかくれる者さえもおりました。
 迎え撃つ秋田軍は二百たらず、多少の抵抗を試みますが、とうてい支えるにはおよびません。戦闘わずかに一刻たらず、茂木筑後はみずから十二所館に火を放って、からめ手口から脱走しました。
 火を鎮めてここを南部軍の本陣(前線基地)とさだめ、人心の不安を一掃するための高札を立てました。
「今般軍を挙げて御境に討入りたるは……(以下要旨)奥羽同盟の盟約を裏切って会津、庄内討伐にまわった藩主の佐竹右京太夫義尭(よしたか)を討つためであり、決して百姓、町人を苦しめるものではない」
 さて、秋田藩主佐竹義尭さまは南部軍進撃以来、連日軍議をつづけますが良策がうかびません。庄内戦は退くに退かれぬ激戦です、たとえ一兵といえども転進できません。このままでは、大館城が抜かれるのは必至です。ここが落ちれば、後ろから秋田城が攻められることになります。
 しかし、みずから選択した同盟の離脱です、いまさら復帰宣言しても身が立つ保証がありません。隣藩盛岡にはどうしても降伏するわけにはいきません。
 進むもならず退くもならず、佐竹義尭まさに窮地におちいったのでありました。
 速馬を飛ばして西南諸藩へ救いを求めたとはいえ、危急を要しているのです。あまりあてにもなりません。
「津軽は、まだか」
 攻守同盟の間がらである津軽藩に救援を依頼してはいますが、なにしろ不意の襲撃ですから隣藩といえどもまにあいません。
 津軽藩にしてみれば昔からなにかと不穏の関係がつづいている南部藩です、敵にまわすだけの理由はないわけではありません。
 だが津軽越中守承昭さま、やすやすとは動かないかもしれません、しおどき(情勢)をうかがっている可能性も十分に考えられるのです。
 南部軍、一日休んで十一日……。さらに進撃を開始……。
「女ごと童子(わらし)は撃つな」
 逃げる敵兵を追討しながら大滝村を抜き、扇田の町になだれこみました。
 ところが扇田には敵兵の姿がひとつとして見えません。敵がいなければ戦闘になりません。それどころか、おかしなことに町役人たちが総出で出迎えてくれました。
 駅裏方の仙寿院という寺に案内されて、
「陣中見舞いだす、辞儀コ(遠慮)しねぇでたべでけれ」
 と、酒肴をはじめたいへんな料理をこしらえて、大八車で運びこまれました。
 遊女たちをお酌にあげて、
「まずはしぇ、お飲みんしぇ、あがらっしぇ」
 まだまっ昼まだというのに、その待遇は尋常ではありません。南部藩兵たちは、すっかり戦勝気分になってしまいました。
「おめぇさまだぢしぇ、泊まっててけろ」
 大将分にはそれぞれに宿割りをして別棟の宿舎があてがわれ、兵士たちにはそのまま仙寿院の本堂が宿舎に提供されました。
「これはおかしい、敵の計略に相違ない」
 遊女たもひきあげてから、佐渡さまの指示によってひそかに行動を起こしました。
「敵の動静をさぐれ」
 町の入り口の神明堂に伏兵を置いて交替で不寝番にあたることにしたのです。
 はたして空が白みかけたころ、敵は佐渡さまの宿舎を包囲したもようです。
 だが、佐渡さまはここにはおられません。危険を察してすでに神明堂に移っておられたのでございます。敵の数がどんどん増してきて、仙寿院の方も包囲されたようすです。
 おりあしくこの日は、一寸先もわからないほどの濃霧がたちこめておりました。
 佐渡さまの宿舎に鉄砲が撃ちこまれました。
 ここに待ちかまえているのは、味方の鉄砲隊……。
 たちまち激しい銃撃戦となりましたが、困ったことには霧が深くて撃ちかけてくる敵の所在がわからないのです。
 そのうえ味方同士の連絡もままならない…。
 敵は地の利をいかしての巧みな攻撃……。
 南部軍、予期した戦闘ながらほんとうに苦戦でありました。
 敵はそのうち、本陣が神明堂と知るや河原を迂回して裏手から不意に襲撃……。
 しかし佐渡さま、狼狽されるようすもなく表に飛び出してみずから槍をふるって数人の敵とわたりあって奮戦し、見事に撃退されました。
 このときの戦、戦死者こそだしませんでしたが、かなりのけが人をだしました。
 陣容を立てなおすために、いったん扇田をすてて、もとの十二所館に引き揚げたのであります。
 八月十八日……。南部軍はふたたび出陣して、大館街道を進撃しました。
「……佐渡前陣となり蔵人後陣、共に進んで大滝に至る。敵兵分ちて三となし、一は山上の要地に拠り、一は河北より軽井沢に来り、一は本道より進む。我また兵を分ち、一は河岸に散布して河北の敵に当り、一は山の反腹に登りて山上の敵に当り、佐渡自ら中軍を率て本道の敵に当る。既にして山上の敵兵嶺を巡りて我後ろに出で後陣に向って発砲す、我兵苦戦し蔵人沢尻に退き佐渡は土井尻に退く。二十日佐渡、蔵人と共に進んで十二所に至る。敵兵迎え戦ふ、撃ってこれを破り進んで扇田に入る。敵神明堂を楯とし拒ぎ戦ひ勝敗決せず、我密かに兵士を間道より敵の背後に出し火を市街に放たしむ、敵遂に潰走す。二十一日蔵人米代川を渡り進んで山館村に至る、敵山林より頻りに発砲す、我兵撃ってこれを破り更に進んで山王平に入る。この地大館間道の咽喉にして敵の堡塁あり。我兵これを攻め日暮に及んで米代川岸に退きしが、夜半急に兵を進めて山王平を陥れ将に大館に至らんとす。時に天未だ明けず敵情審かならざるを以て暫く山王平に留り、早朝沿道の敵を駆逐して大館に入り、火を市街に放ち佐竹大和の居城たる大館城に迫る。十二所の破れたるより茂木筑後の兵ここにあり。また秋田の援兵もあり力を合せて防戦せしが、我兵大砲を以て城門を砕き城中に突貫す。敵支ふる能はず自ら火を放ちて後門より通る。我兵遂に大館城を占領す。佐渡の兵は扇田より本道を進み、敵を掃討して午前中大館に入る……(『南部史要』抜粋)」
 激戦につぐ激戦で、大館城はついに陥ちました。
 佐渡さまの作戦はじつに水際立っておりました。兵学家としても非凡であったことが、いまなお語りぐさになっているほどでございます。
 しかし、勝ち戦もここまででございました。
 
(三)同盟軍降伏
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