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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
六、菊の間評定
 
(二)菊の間評定
  筆頭家老楢山佐渡さまご不在の七月三日、盛岡城二の丸の大広間「菊の間」…。
 床の間正面が藩主南部美濃守利剛さまの席であります。
 向かって右に南部弥六郎済賢(遠野南部)、左に八戸領主南部遠江守、続いて七戸領主南部信友、これを中心に首席家老南部監物、家老南部主水、花巻城代毛馬内伊織、その一族の毛馬内三左衛門、家老桜庭愛橘の代理桜庭豊後、百姓御用係で家老南部主水、政務御用係野々村真澄、勘定奉行米田武兵衛、郡奉行戸来楽眠、平山郡司、下斗米知幾、軍務方大目付向井蔵人、野田丹後、米田貞機、納戸役原田門、大目付鳥谷部嘉助、留守居役加島加録、伊東元右衛門、北郡奉行新渡戸伝、郡奉行で大目付の沢田斉、小菅佐宮、その他町奉行、目付にいたるまで名のある者はすべて招集され、すでに開始予告の小半時前には一同そろって着座しております。
 大評定の開始は七ツ刻と申しますから、明方の四時頃でしょうか。それほどまでの大事だったのでございます。
 盛岡藩が藩政策の決定をこれほどの衆議に諮るのは、初めてのことであります。
 重苦しい雰囲気のなかですが、それでもあちこちで、ヒソヒソと私語も交わされております。
「俺ぁたちの南部藩は如何(なじょ)になるんだろう」
「もしかしたら、賊軍と呼ばれんだべが」
「否ぁ、最後は官軍だべ。とても天子様に歯向えるわけがねぇべ」
「そだども、仙台の伊達さましだいだべよ」
 やがて、藩主である左近衛中将南部美濃守利剛さまが姿を見せて床の間を背にして座に着かれるや、早速に首席家老南部監物が、ひととおりの戦火情勢と南部藩が置かれている立場を語られたのであります。
「おのおの方、すでに周知のとおり、藩が運命を賭けての衆議(しゅうぎ)でござる。取るべき道は二つに一つ、忌憚のない意見を伺いたい」
 錦旗を掲げてみずから官軍と称する薩長軍が、なにがなんでも会津藩を攻略するということで、すでに福島に進入したのであります。
 これに組して官軍となり仙台を敵にするか、それとも会津を擁護して仙台藩と共に奥羽列藩同盟の盟約にしたがい秋田を攻めるか、苦渋の進退なのでございました。
 忌憚のない意見をと言われましても、指名もないのに勝手に挙手をして申しあげることも適わないのです。
「貴下(そこもと)の考えはいかに……」
 まず一番に指されたのは勘定奉行の米田武兵衛、上座の藩主利剛さまに一礼……。
「おそれながら申しあげます。奥羽列藩が同盟を結んだのは、朝廷に逆心があってのことではなかったのでござんす。ただただ、戦火をこの奥羽の天地におよぼさないことを望むが故であり申した。
 それがためには会津の恭順を許してもらい、是が非でも会津討伐を中止させるしかなかったのでござんす。
 しかるに鎮撫使(ちんぶし)の随従者たちはわれらが勤王素志(そし)の奏上をはばみ、あげくの果ては、俺ぁたちを奥州の山猿どもとののしり、喧嘩をうり、この地を滅ぼして分配しようとの企みもあるやに聞きおよんでもおりまする。
 そんなこんなで招いたのが今回の事態でありまするから、誰が考えても責任は一方的に薩長側にあるのだとぞんじあげまする。
 もうし、お殿さま、こんたなことが許されますか。俺たちはまず、奥州同盟の結束を固めることが一番ではながんすか。
 それがためには仙台の要請を一日も早く受け入れて、秋田の佐竹、ひいては津軽に戦(いくさ)を挑むことではあり申さながんすか」
 それほどの弁舌家でもない米田武兵衛、少なからず興奮もしておりますからしだいに甲高い声になってもまいります。
 上座の南部弥六郎などは、明らかに不快感を露骨にしめしてもおりました。
 米田武兵衛の隣に座している政務御用係の野々村真澄が、これに気づいて…、
「米田殿、もうその辺で止めてはどうか」
 密かに袖を引いて制される一幕もありましたとか……。
 ところが、次に問われた軍務方の向井蔵人も、続く平山郡司も、米田武兵衛の佐幕論ともいえる意見に賛意を表したものですから、真っ赤になって怒ったのは八戸弥六郎(遠野)……、怒鳴りかかって膝を立てます。
「まずひととおり各々(おのおの)の意見を聞くように…」
 藩主利剛さまに制止されて弥六郎、膝に置いた拳をブルブルと震わせて黙してしまいました。
 なにしろ弥六郎済賢と言えば、藩中で知らぬ者がないほどの勤王論一筋の者……。
「われらが祖は、勤王五世、即ち師行、政長、信政、信光、政光が五代に渉って南朝に忠勤を励む。我が代に至って、何ぞ叛向う弓箭(きゅうせん)のあらんや」
 いつも、この事を自慢しているのであります。
 それに、もともと豪気磊落(ごうきらいらく)、政治手腕は南部藩随一の人物としてなかなかの信望の高い方でもございます。
 藩主利剛さまの父利済さま(三十八代藩主)の時代に、悪政のためにたびたび百姓一揆が起こっています。
 とくにも弘化四年(一八四八)、嘉永六年(一八五三)と再々の押し寄せ(野田一揆)は、かつてないほどのお家騒動を引き起こしたのであります。
「八戸弥六郎済賢を仙台に派遣して事の始末に当たらしめよ」
 わざわざ江戸幕府から指名され、交渉を成立させたほどの人物だったそうです。
 そればかりか、弥六郎済賢は佐渡さまとは義兄弟の間柄です。
 佐渡さまの姉の多代(恵与)が弥六郎済賢夫人……。
 さらには、藩主利剛さまの母という方が佐渡さまの叔母に当たる方……。
 つまり佐渡さまの父帯刀さまと藩主利剛さまの母(烈子)とは兄妹なのです。
 この近親関係も弥六郎済賢の存在を絶対のものとしているのです。
 さて話を、菊の間評定の場にもどしましょう。
 次々と指名を受けて、主だった者たちの意見が出されてまいりますが、さすがに弥六郎済賢の手前もあってか、薩長軍に対する憤りは露骨に表明されますが、明確に佐幕論を唱える者はおられません。
 しかし、尊王論とても強力な意見としては出てまいりません。天朝に弓を引く者ではないが、として、奥羽列藩同盟の盟約を重んじる意見がやや優勢とは申せ、今一つの決定打ともなり得ません。
 いずれも似たり寄ったりで進展をみないのであります。
 やがて、家老南部監物が手にする扇子の先が、番頭の野田丹後を指します。
「野田どの、貴下はいかに」
 尊皇派と知れる野田丹後も、なかなかの弁舌家です。
「ははー、奥羽同盟は確かに勘定奉行の米田どのが、お説どおりの趣旨で結ばれたものとは存じます。
 しかし、この同盟の盟主である仙台藩の煮え切らない態度が気に入り申さん。
 いかに勤王・佐幕の各論激甚といえども、軽率粗暴なる政策、一つとして信頼するに足るものがあり申そうか。
 しかも当面の事態に対してもなんら一貫した術策がなく、いたずらに姑息な策を巡らし、感情に走っては殺傷を事としており申す。
 今回の窮迫なる事態を招いたのも一時の怒りにまかせて、いやしくも参謀の世良どのを切ったことにあり申す。
 各々方、そうは思われませぬか……」
「とのとは何か、世良は奸賊、との(殿)呼ばわりは不要であろう……」
 後ろから飛んだ半畳(はんじょう)です。
 世良とは、前にも述べましたが仙台藩士に惨殺された、あの官軍総督府参謀の世良修蔵のことです。
 野田丹後は、いったん野次が飛んだ後方を振り向いてきっとにらみました。常なれば野次はご法度(はっと)でもあります。
「捨て置け、かまわぬ」
 藩主利剛さま直々のお達しでありました。
 野田丹後、やがて家老弥六郎の方に向き直り、助けを求めるかのようなす仕草を見せて大きく一息いれました。
 弥六郎もまた、これに応えるかのように微かに膝を叩かれると、意を得たりとばかりに、丹後の弁舌は続いてまいります。
「世良どのばかりではござらん、つい前の会津討伐作戦のさいにも、南部・仙台連合隊の主要人たる鮫島忠左衛門どのを、自藩の都合だけで暗殺したること、どう考えても仙台藩は同盟の相手とは考え難いのであります。
 第一にこのたびの庄内・会津討伐令は、鎮撫使九条総督から発せられたもの、勅命そのものでありましょう。これに反するは逆賊であります。このさい、速やかに仙台藩とは決別し、直ちに秋田を助けるために出兵すべきが至当であります」
「よし、よし」
 野田丹後の弁舌を、扇子を開いたり閉じたりしながら聞いていた家老弥六郎、今度は満座に聞こえるような声をあげて膝をたたかれるのであります。
 当然に異論の者もおったとは存じますが、なにしろ城中きっての実力者弥六郎に、こう露骨に先手を打たれましてはどうにもなりません。
 座はしばらく、賛成とも反対とも不明なほどの私語で騒然となったのであります。 もう昼の七つ刻(午後四時)を回っておりました。
 途中二回の小休止を挟みましたが、いずれにも同じ握り飯とお漬物が口に入っただけだったと申します。
 延々と十二時間の評議でした。
 藩主利剛さまはと見れば、皆様と同じお握りを口にして、家臣の申す意見にも、うなずくでもなく渋るでもなく表情一つ変えずに終始端然と座していたと申します。
 
(三)衆議不備
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