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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
六、菊の間評定
 
(一)総督来盛
  五月二十日、鎮撫使一行は仙台藩一小隊の先導で盛岡へ向けて発ちました。
 この時、仙台駐屯の盛岡藩沢田隊も一人残らず護衛のためとして随行したので、もう仙台領に残る南部兵はひとりもおりません。
 一行は、国境の鬼柳駅で盛岡藩戸来銃隊二小隊に迎えられて南部領に入りました。
 九条総督従者百八人、醍醐副総督従者十七人、それに鍋島弥六郎率いる鍋島藩(佐賀)兵、平井小左衛門を隊長とする小倉藩(福岡)兵など総勢千三百名と申します。
 この年、南部領は例年にない長雨が続きましたので、各地に洪水があり橋梁や船渡場の流失があいつぎました。
 仙北町の新山船橋も通行止めとなりましたので、総督の一行は水沢や日詰などで数日間滞在することになりました。
 ようやく盛岡城に入ったのは六月二日の昼過ぎであります。
 藩主南部美濃守利剛さまが、南部弥六郎済賢をしたがえて出迎えました。
「うるわしき総督閣下の御尊顔に拝し奉り恭悦至極に存じます。閣下におかせられましては、このたびの奥羽鎮撫のお役目、誠に有り難き幸せに存じあげます」
 さて、「有り難き幸せ」とは単なる挨拶用語でありましょう。
「天保以来、奥羽の民百姓はたび重なる飢饉に遭遇し、ことのほか難渋いたしおりますれば、何とぞ戦火だけでもおよばざるよう、願わくばご寛大なる思召(おぼしめ)しを仰ぎ、まずは会津の恭順をご赦免下されたく謹んで御願い申しあげます」
「それじゃがの、それ、会津赦免のための奥羽越列藩同盟の件よ。当藩の事情もござろうがの、離脱して会津討伐に尽力してもらうわけにはいかんかのう」
「……」
「いかがでござろう中将(利剛)どの。麿(まろ)の頼みは天朝の命令じゃ」
「天朝に対しましては、我が南部藩は古来より一貫して他意などこれなく……」
「いやいや、勤王の意(まこと)なれば、過日仙台において当藩特使の野々村真澄どのより伺っているところ、改めての口上にはおよばず。いま麿が貴藩に問うておるは、天朝に従うか、はたまた背かれるかじゃ」
「……」
 九条総督はあきらかに威丈高……。
「いかがでござろう、ほれ天朝の命じゃがの」
「当藩の尊王の決意強固なれば、いずれは総督閣下の思召しどおりにあいなるは必定なれど、一応は列藩同盟のこともございますれば諸藩の動向を見定めるまで、今しばしのご猶予を賜りたく天子さまにもよろしくご奏上のほどをお願い申しあげます」
「中将どのが申す近隣諸藩とは、とりあえず仙台のことじゃろうが。伊達がいかに大藩といえども、相手は錦の御旗じゃからの」
「……」
「のう中将どの、どこに考慮の余地がござろうかのう。結断してこそが、尊王のまこと(真)というものじゃろうが。麿が間違うているか、うん」
「いえいえ決して、そのような儀では……。いずれ近日中に藩議を経て、必ずやご納得いただけるようなご返事をいたしますれば……」
 総督一行が来盛以来、藩主利剛さまは弥六郎済賢を伴ってたびたびその宿を訪れ接待に当るとともに、勤王の真を強調し、会津藩の降伏・恭順赦免の献言につとめました。
「当藩が奥羽の安らけき鎮撫のために準備いたしましたご献金をご受納頂きたく……」
「ほほう、かたじけないのう、で、いかほどかのう」
「些少にございますが、一万両でございます」
「陸奥(みちのく)に金のなる木があるとは、聞いておったわ、ほほほ」
 盛岡藩が八千両、八戸藩が二千両、出し合っての一万両でありました。
 この時の盛岡藩の出費は、もちろんこれにだけに止どまりません。
 宿舎として九条総督には本誓寺、醍醐副総督には東国寺を提供しました。その他に、一千名を超す兵士についても盛岡北山の各寺院に分宿させ、半月以上にわたるまかない(賄)の一切を藩費で負担しましたので莫大な経費であります。
「麿は、嬉しいぞ。委細しかと朝廷に伝達いたすぞよ」
 そのうちに、実に聞き捨てにならない噂が立つようになったのです。
 某寺の若妻が、本堂内で数名の兵士に犯されたという噂が立ったのです。
「そたな事件(ごど)だば、昼日中(ひるひなか)に四ッ家町の藤屋だがの娘も、押し込んだ数人の兵士たちに輪姦(まわさ)れたどよ。その母親(おふくろあ)が激怒(ごせや)いで奉行所さ届けたづども、官軍さまのことだから我慢せぇと言(そ)われて泣く泣く戻ってきたど」
「ほに、震撼(たま)げるな」
 あやしげな話です、近々に迎える戦の噂にもみ消されてしまうのですが、もしも事実ならばまさに姦軍であります。
「麿たちは、そろそろ秋田・津軽を経て帰京するが、その際はただちに参内いたして貴藩が尊王の真意を上奏いたそうぞ」
 後(戦後)のことですが、総督一行が盛岡滞在中のこの時が、南部藩が同盟を離脱する絶好の機会だったと申す者がおりました。
 それは、蟄居(ちっきょ)謹慎の身の東次郎であります。
 かれは、総督一行が盛岡に入ると聞いて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)……。
「わが藩はただちに奥羽同盟を破り、九条総督を擁して藩主利剛を筆頭に、みな花巻城に立てこもるべきである。そうすれば秋田、津軽両藩も勤皇派として馳せ参じるから後顧の憂いはない、急ぎこの案を実行すべきである」
 次郎からの上書が、家老南部監物のもとに届けられたのです。
「謹慎の身の次郎がなにを申すか。藩論を乱すもととなる」
 この上書は、藩主の目にもふれることもなく焼却されております。
 ともあれ、六月二十日の醍醐副総督に続き、二十四日に九条総督が盛岡を発ちました。盛岡藩では醍醐副総督に銃隊一小隊、九条総督に二小隊を護衛として秋田国境まで見送りさせております。
 ひとまずほっとしたのは、まかないに疲れた盛岡藩です。
 九条総督が向う秋田の佐竹藩も、最初から奥羽諸藩とともに同盟に加わって会津藩赦免につくしておったのですが、これより少し前に沢副総裁が秋田入りしてから様相があやしくなってきたのです。
「仙台は、大藩にもの言わせ周囲の諸藩を威嚇しながら形ばかりの同盟を結んだが、これはいつ壊れてもおかしくない。陸続(りくぞく)と奥羽を目指している列強ぞろいの官軍にはとうてい勝てる訳はないじゃろう。
 貴藩においては勇気をもって直ちに同盟を離脱して仙台藩に攻め入れば、おもいめでたき官軍として処遇するように取り計らうであろうぞ。できれば津軽にも呼びかけ結束してことにあたられよ」
 沢副総裁が、これくらいのことは申したに違いありません。
 いちがいに、今は佐幕派・倒幕派の表現も、官軍・賊軍の呼称も適当ではありません。まぁ、同盟派・反同盟派とでも申しましょうか、二派に分かれて紛糾したのは秋田藩とて例外ではありませんでした。
 同盟派は上層部をふくむ守旧派、反同盟派は藩の砲術所の青年たちです。かれらは家老を説得し、さらには藩主佐竹義堯(よしたか)さまのご決意をも固めさせようとしていたのです。
 これを察知した仙台藩は、さらに九条総督と醍醐副総督の二人が秋田入りをすれば完全に同盟離を脱するのではないかと懸念して、志茂又左衛門ら十余人を使者として秋田に派遣したのであります。
「鎮撫総督一行が貴藩に向って盛岡を発たれたが、奥羽鎮撫に兵力を用いないことをせまり、これを確約させるまで総督一行の秋田入りを阻止されよ」
 志茂又左衛門は強硬に申し入れたのでございます。
 秋田藩ではこれを、内政干渉だとして憤激したというのです。
 しかも、仙台藩使者に無礼の言動があったとして、志茂ら十余人の宿舎を襲い六名を斬り捨てました。また、ほかは捕らえて投獄の上に斬に処し、その首を街路にさらしたとか申します。
 余談ですがこの時、総督らを護衛した盛岡藩同心の一人が、たまたま仙台藩の使者たちと同宿していて、誤って斬られるという事件がありました。
 しかし、九条総督が仲介となり、秋田藩の誠意ある陳謝もあって不問に付されることになったのです。
 いずれにしろ、これで秋田藩は仙台藩との国交断絶はもとより、奥羽越列藩同盟の離脱もあきらかとなりました。
 やがて、秋田藩と攻守同盟があるとみられる津軽藩も離脱するのではなかろうかとも思われます。
 激怒した仙台藩は、ただちに同盟破壊者としての秋田を討つべく国境に兵力を集中したのであります。
 当然に盛岡藩に対しては協力要請がありました。
「もしも提議に応じない場合は、戦いの血祭りにまず盛岡領に進撃する用意がある」
 まさに威嚇であります。
 一方、時を同じくして九条総督からの早飛脚でした。
「盛岡藩は直ちに秋田藩の援護にあたり、その敵を撃破せよ」
 暗に仙台藩を討てというのです。
 九条総督は二十日間も滞在して盛岡藩の誠意を見ておりますから、むしろ、この時は秋田藩よりはるかに盛岡藩を信頼していたのでありましょう。
 仙台藩の要請を受けて秋田を討てば、錦旗を擁する官軍と戦わねばなりません。
 さりとて、九条総督の命令に従えば、同盟を裏切るばかりか仙台六十二万石の強敵と戦わねばなりません。
 盛岡藩主南部美濃守利剛さまも進退きわまったというところ……。
「会津も仙台も米沢も、簡単には官軍を名乗る薩長軍に墜ちながんす。この戦は一年では終結しないでございましょう。しかも最終的には、わが藩論の公武合体論などでおさまるはずもありません、そこで、たとい勤皇となるも佐幕となるも、如何(なじょ)なる事態が生じようとも、私が戻るまで決断なされてはなりませぬ。
 この佐渡が、京で確かめたいすじがございますれば……。もとよりその責任は、この佐渡が一身に背負いまする。して、このことは口外無用に願います。たとい遠野弥六郎どのといえども……」
 美濃守利剛さまがひっかかるのは、上洛前にこう申された筆頭家老の佐渡さまの一言でございました。
「藩の興亡にかかる事態なれば、直ちに帰藩(きこく)されよ」
 とうに、京都をたてて速馬を走らせておりました。
 
(二)菊の間評定
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