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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
五、列藩同盟
 
(二)世良誅戮(ちゅうりく)
  奥羽列藩の名のもとに、礼のかぎりをつくして願いでた会津救出嘆願は却下されてしまいました。
 もはや覚悟をきめるしかありません、会津藩主肥後守さま……。

  御沙汰ノ趣(キ)、難(ク)レ 有拝承仕(リ)候得共、徳川家名成行不二 見届一 内ハ謝罪仕(リ)間敷(キ)覚悟ニ御座候間可レ 然御沙汰奉二 願上一 候 以上                 
                            陪臣 松平肥後守
  閏四月十五日

 閏四月十五日というのは、嘆願却下の当日です。
 肥後守さま、屈辱にたえて、伏して降伏の嘆願書が却下されるとならば、とるべき道は一つ、立ちあがるしかないのでございました。
 鎮撫府にしてみれば、この届出書は会津からの挑戦状となります。
 これには、総督府のマロ(磨)たちも、ことの重大さにやっときがつきましたか、ほとほと困りはてたもようであります。
「どんなに謝罪してもゆるすなとは、参謀どの(世良)にもこまったものよのう」
「麿が思うに、これでは火に油をそそぐようなもので、戦火は広がるばかりじゃ」
「奥羽のあらえびすどもだって怒るよなぁ。なんとか戦を、さけられんかのう」
 あらえびすとは、薩長方のいう奥羽大名の卑称です。
 こうなりましたのも、もとはといえば下参謀の世良修蔵のしわざです。
 九条総督の無力ぶりは、お公家さまですからまぁしかたないとしましょう。
 問題なのは世良修蔵、いやしくも天皇の軍隊の下参謀たる要職にありながらに、目にあまるあまりの横暴ぶりであります。
 そもそもこの男、奥羽鎮撫府の陣容にくわわったのがふしぎなくらいなのです。
 最初は、鎮撫総督左大臣九条道孝、副総督従三位沢為量、参謀醍醐少将忠敬、下参謀黒田清隆(薩摩)、同・品川弥次郎(長州)という布陣だったのです。
 それがどんな理由(わけ)で、下参謀が二人とも交替したものでしょう。途中から、黒田清隆と品川弥次郎に代わって大山格之助と世良修蔵が登用されているのです。
 この人選が、奥羽にとりましては不幸でございました。いや、新政府にとっても決して成功とはいい難いことであります。
 もともと、新政府はこの戦をはじめるにあたって、目的が「鎮撫」か「討伐」かと問題になったそうであります。
 薩長の魂胆(はら)はあくまで討伐でございました。
「それ(討伐)にしても、おもて(表)は鎮撫といこう」
 大久保利通や岩倉具視らの意見で一応まとまりました。
 まぁ、鎮撫というおだやかな看板で、あくまでも討伐を目論(もくろ)んだのであります。
「二枚看板を背負っての下参謀は、われらにはあいつとまりませぬ」
 真偽のほどは不明ですが、しかし誠実穏健な黒田清隆や品川弥次郎にしてみれば、このくらいのことは申しあげたであろうことは、想像に難くありません。
 しかも下参謀というのは、上に鎮撫総督や副総督がいるとは申せ、戦となれば全責任を背負う司令官であります。
 そこで、にわかの交替人事となったのですが、この任は誰でもよいというものではありません。おそらくは、できるだけ過激な野性に燃え、東北に異常な憎悪をいだいている男を探したことでありましょう。
 大山はともかく、世良とはいかなる男でありましょう。
 世良修蔵について、『会津士魂(六)炎の彰義隊(早乙女貢)』の一節に、次の記述があります。
「元騎兵隊士世良修蔵は周防(すおう)の大島椋野村に生まれ、幼少時は、村の言い伝えるところによると、うすぼんやりで馬鹿と嗤(わら)われていたという。土佐の坂本龍馬なども、十四歳まで寝小便を垂れ流していたというから、そういう少年時の愚かさが、両人とも長じての野心を異常に肥大させたのであろう。世良はその馬鹿さ加減から、父親からもうとんぜられ、勘当されていたらしい。のちに彼が賦した詩によると、十歳で郷里を飛び出したという。村人たちの嘲(あざけ)りや、父親からも嫌われては、少年の心はねじ曲がるばかりで、そのことが、かれの非人間性を決定的にしたのではないか。かれが下参謀に選ばれて、執拗に長州藩士らしく『外敵』会津と東北を焦土にしようとしたのは、このねじけた性格の故でもあろう。また、その性格が、薩長首脳部にとっても都合が良かったのだろう。もしも『鎮撫』の名目通りに総督府とその軍が動いていたら、奥州の戦火はなかったはずなのだ。世良は奥羽人の切なる嘆願を一蹴し、爆薬に、点火した。それがおのれの首をまず吹っ飛ばすことに気のつかぬ愚かさがあった」
「奸賊(かんぞく)、世良を斬れ」
 だれが言いだしたものでしょう、世良誅戮(ちゅうりく)の噂が会津・米沢・仙台の藩士たちの間でささやかれだしたのでございます。
「くだけてもともと、いま一度、世良本人に会って説得してみてはどうか」
 仙台藩家老但木土佐らが画策して、坂本大炊(おおい)と遠藤久三郎なる者を、世良のいる白河城へつかわしました。むだとしりつつも、できることならば戦火を避けたいという一念からであります。
「会津容保謝罪降伏を嘆願いたしたにもかかわらず、諸藩にあくまでも会津討伐を催促されますならば、いかなる暴動も生じかねません。すでに数名の藩士は脱藩しました。鎮撫の実をあげるためにも、ここはひとまず会津の哀訴をいれて、列藩の兵を解かれてはどうか」
 藩士が脱藩するということは、藩籍を脱いで己の責任でなにか事をおこそうという動きでございます。これまでの世良ならば、そんな脅迫(おどし)にふるえる男ではありません。すぐにに一喝してしりぞけるところでありましょう。ところが……
「わかった、いずれ醍醐少将と相談して沙汰する」
 これは思いもよらぬ返事であります、なにかがかわっておりました。
 そのころ、鎮撫総督府に妙な動きが見えはじめたのであります。
 会津肥後守の容易ならざる決意を知って、狼狽(ろうばい)したものでしょうか。
 くわえて、うらで動いている列藩同盟結成の動きを察知したのかもしれません。
 まもなく、次のような通達であります。

  松平肥後守追々暴動ニ及(ビ)候得共、罪魁(ざいかい)之義一等ヲ被レ 宥候上ハ悔悟伏罪御仁慈ヲ仰ギ候ニ於(おい)テハ寛典(かんてん)ニ可レ 被レ 処候間、心得違(イ)無レ 之旨御沙汰候事……。

 もしかしたら、そのうち寛大な恩典があるかもしれないというのです。じつに思わせぶりな文面ではございませんか。
 それにしても、マロ(麿)たちがあの世良修蔵をどう説得したものでしょう。
 いや、かりに説得したとしてもです、容易に納得するような男ではありません。
 しかもです、世良がこれをうらづけるような動きをみせだしたのであります。
 下参謀世良は、鎮撫総督府づきの仙台藩参謀大越文五郎をつかい、過日却下した嘆願書をわざわざ白石から取りよせたのです。
「これに、わしの謝罪書を付して大総督府に嘆願の口添えをしてみよう」
 世良がみずから江戸におもむいて、会津嘆願に力を貸そうというのであります。
 おかしな話でございました。わざとかどうかは知りませんが、このことを仙台藩参謀の大越に明かしたものですから、同盟側に筒抜けでございます。ただちに大越から世良誅戮に動いている仙台藩の会津侵攻隊長の瀬上主膳(せのうえしゅぜん)に伝わったのです。
「そうか、しかしそれは奇怪(おか)しい。だまされるな、世良を見張れ」
 これは、まさに「狐」の謀略なのでありましょうか。
 かつて倒幕を目的に、土佐の坂本龍馬の周旋で薩摩・長州・土佐が三国同盟を結んだことはよく知られていますが、締結(まとまる)までにかなりのときを要しました。薩摩と長州の仲が、あの蛤御門(禁門の変)以来ぎくしゃくしていたからでした。
 そのとき、薩摩の西郷吉之助が長州を侮蔑して吐いたことばです。
「長州人は狐でごわす、信じられもはん」
 それはさておき、世良が勝見善太郎をしたがえて白河を出たのが十八日、途中(福島)までは大越文五郎も一緒でありました。
 翌十九日には、松川の本陣で醍醐少将と会い、内容は不明ですがふたりだけでずいぶん長時間にわたって密議しております。
 その後、福島に入り定宿としている金沢屋(妓楼・ぎろう)に投宿したのです。ここでは、いつも福島藩の用人鈴木六太郎が世話をすることとなっておりました。
「世良参謀どのを、くれぐれもよろしく」
 じつは、「よろしく」と申しますのは、世良の厳重見張の依頼です。すでに鈴木には瀬上主膳が内通しておったのです。大越は仙台藩が屯所としている長楽寺に向かいました。
 世良誅戮の動きは着実に始動しておりました。
 もちろん、金沢屋の亭主にも瀬上主膳が手をまわしていたのでしょう。
 いつもの世良ならばなじみの妓(こ)をすぐ寝所に呼びよせるところですが、この日は昼過ぎには到着し、靴を脱いで部屋に入るや人払いして筆墨を命じ、どこへ出すのか手紙を認(したた)めだしたのです。
「至急、羽州戦線の下参謀大山格之助どのへこれを届けてくれ。大切な密書なれば、特に仙台人には極秘にいたせ。また、飛脚には人物を選び両名とせよ」
 世良は、これを無警戒にも鈴木に頼んだのであります。
「この書翰を、密書としてあずかりました」
 夕刻には、鈴木六太郎が長楽寺に陣どる瀬上主膳のもとに届けられたのでございました。
 書翰は、「引キ続き御配慮奉察候」にはじまる長い文面でありました。
 要は、あくまでも押し切るつもりで、謝罪書を付して太政官に嘆願の口添えをするなどとは、真っ赤なうそだったのです。自分はこれから京都へ行くが「貴殿(大山)は、これまでどおり賊徒征伐にご尽力のほど」と、いうものでありました。
 とくにも、「奥羽皆敵ト見テ逆襲之大策ニ致度候ニ付……」とか、「仙米(仙台・米沢)嘆願不相叶(あいかなわぬ)時ハ反逆之咄モ致シ居ル由、勿論弱国二藩ハ不足恐(おそるるにたら)ズ候得共……」の文言は、瀬上主膳や同席した姉歯武之進(あねはたけのしん)、岩崎秀三郎(いわさきひでさぶろう)らを激怒させたのです。
「奥羽は皆敵とは、なんたることか」
「仙台、米沢を弱国よばわりし、恐るるに足らずとは、けしからん」
 もしかしたら、すでに世良誅戮の動きを察知して逃亡をはかる魂胆だったのかもしれません。そうだとすれば、一刻の猶予もありません。
「世良は、明日払暁(ふつぎょう)六ツ刻(午前六時)に出立する」
 金沢屋からの報で知ったのです。
「やる(斬る)とすれば今夜をおいてない」
 すでに、血気にはやる仙台藩士たちは、長楽寺を出て子ノ刻(午前〇時)には、金沢屋を遠巻きにいたしておりました。
 おぼろの月が、このようすを見おろしておりました。
「世良は、随分(しこたま)酔って土蔵の二階に妓をだいてお寝(やすめ)ぁってるど」
 やがて、ほんのり東の空が薄明りをおびてきますと、人影が動きだしました。
 金沢屋の表口にも、裏口にも二、三名ずつの影が立ちました。
 瀬上主膳らしい者のふりあげた右腕を合図に、数名の者がすすすっと中へすいこまれて行ったのです。
 それから、半刻近くたったころです。
 さきほどの一団が金沢屋の玄関からでてきました。
「妓(おんな)に、けがは」
 瀬上主膳の問いに、遠藤条之助が頭を横にふりました。
 仙台藩投機隊赤坂幸太夫に後ろ手にしばりあげられて、わめいている半裸の男が世良でありました。
「覚えておけ、これで仙台藩も会津とともに朝敵じゃ、賊じゃ、獄門台じゃ」
 やがて一団は、世良を引き連れ長楽寺うらての河原の方に降りて行きます。
 東には、暁天にそまったすじ雲が浮かびあがっておりました。

 
(三)列藩決起
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