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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
四、奥羽暗雲
 
(二)会津攻撃
  奥羽諸藩にはすでに会津征伐命令が下っています。
 刻々と暗雲が立ちこめてまいります。
 盛岡藩では、佐渡さまが上洛前に編成された会津討伐隊は、いまや遅しと、出陣の日を待っているのでありました。
「如何(なんじょ)した訳であろう、仙台からの沙汰がない」
 新政府は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわみやたるひとしんのう)を東征大将軍にいただきました。
 奥羽鎮撫総督(ちんぶそうとく)左大臣九条道孝、副総督三位沢為量、参謀少将醍醐忠敬が率いる官軍とよぶ討伐軍も、すでに京都を出立しているはずです。
 江戸城の無血開城の報もありました。
 仙台藩からはなんら音沙汰もないのです。
 仙台藩とてもただ安穏(あんのん)と座しておったのではありません。
 会津藩に対しては、新政府への恭順の意をうかがっていますが、
「天朝に敵対するものではないが、いずれ帰国される藩主松平容保の意向次第で……」
ということでありました。
 さらには、奥羽鎮撫総督九条道孝あてに、会津出兵猶予の願い書を送りました。
 しかし、この建白書が江戸に届いた時には、総督一行すでに海路仙台に向けて発った後だったものか、それとも途中だれかが握りつぶしたものか、総督府では「受理せず」ということになっているそうです。
 さて、江戸におりました会津藩主松平容保、帰国されるやただちに軍制改革に着手しております。どうせ避けられない戦ならばと覚悟されてのことでしょうか。
 まずは軍事組織の強化です。
 従来の山鹿流などは、すでに鉄砲の時代に通用する訳もありません。
 会津では、前々から密かに英国、仏国に若い家臣を派遣して先進国の軍制事情を視察し研究されておりました。
 年齢別による白虎(びゃっこ)隊・朱雀(すざく)隊・青龍(せいりゅう)隊・玄武(げんぶ)隊の大隊、三十一中隊、三千八百余名でありました。
 会津の軍事状況はさておき、仙台藩からの早飛脚便がやっと盛岡に届きましたが、それは盛岡藩が待っていた出動令ではなかったのです。
「奥羽鎮撫使として九条総督の一行が仙台に到着された。不日(そのうち)盛岡にも訪参の趣あるやも知れず」
 と、いうものでありました。盛岡藩でも、さっそく尊王論者の弥六郎済賢の指示で、丁重にこれを迎える準備に入ったのであります。
「朝廷からの勅使とあれば、誠忠の心をもって応対すべし」
 用人番頭の野々村真澄を特使として、すぐ仙台に派遣しました。
「謹んで宮様の御来駕を賀し奉ります。天朝に対し奉り我が盛岡藩は、古より終始他意これなき旨、天子様にも宜しく奏上の儀、御願い申し上げます」
 この言上を、九条総督はこころよく聴納されました。
 四月七日になって、総督からの通達が盛岡に届きました。
「盛岡藩は速やかに出兵し、米沢街道から会津に攻め入るべし」
 もはや仙台藩の指示待ちの猶予などはありません。
 すでに出動の準備は完了しております。
 仙台領との境界である黒沢尻駐留の大目付沢田斉の率いる第一番隊に出発命令が下りました。沢田隊は、盛岡藩きっての新鋭銃隊を主力とする一大隊です。
 沢田隊は、四月二十四日の朝には岩沼の駅に到着、さっそく仙台藩に対し共同作戦の申し入れをしたのですが、返事は午後になってもありません。
 八ツ半を過ぎて、今度は九条総督から指令変更の通達です。
「幕府軍の残兵隊が、関東街道を塞いで官軍の進攻をはばんでいるので、これを背後から撃破すべく仙台・盛岡両藩連合して白河口に進出すべし」
 そこで、沢田斉は仙台藩当局と作戦を練るべく交渉をしましたが、なぜか仙台藩はこのときも煮えきらなかったのです。
 沢田斉の提議に首を左右にして応じません。やむなく進発を猶予して、その日は岩沼駅に駐留を余儀なくされたのでありました。
 国表盛岡では、二十四日に桜庭愛橘を隊長とする第二番隊の派遣を決めて、仙台に向けて進発させました。四日後の二十八日には、奥瀬伊左衛門の率いる第三番隊をやはり仙台に向けられました。
 この両日とも派遣軍出征に当たっては、盛岡八幡宮の馬場で「武者揃い」を開き、武運長久を祈願されました。
 この時藩主南部美濃守(みののかみ)利剛さまに代わり甲冑装束の大隊長八戸南部(遠野)弥六郎済賢が閲兵、鞍上から激励されたのであります。
「盛岡藩が向後の運命は、ひとえにおのおの方の双肩にかかっている。一身を粉にして、わが南部武士の雄魂をもって奮闘せよ」
 岩沼に駐屯している沢田一番隊の、仙台藩との交渉はいつまでも進展しません。
 本国の指示により、単独で白河口を目指して南下をはじめました。
 後ろから来る友軍を待ちながらの行軍ですから、別に急ぐでもありませんが、福島・郡山を過ぎ、夕刻には須賀川駅(滑川村)まで進出しておりました。だが、仙台の藩兵たちの姿が見えないのです。ともかくここで、仙台藩兵を待つことにいたしました。
 ところがここで、またまたの転進命令であります。
「庄内藩は会津藩と組して朝廷に反逆するにより、南部・伊達連合軍は速やかに庄内に攻め入るべし」
 庄内へ攻めるとなれば、ここまで来た道を岩沼駅の手前辺りまで戻らなければならないのです。このように行く先々で、たびかさなる転進変更があって、奔命に疲れるのですが、盛岡藩兵は不満の色ひとつ見せなかったとも言われます。
「盛岡藩兵の一糸乱れぬ転進ぶりはみごとである、わが長州藩のとうていおよぶところではない」
 長州藩の幹部将校が総督に宛てた書簡の中に記されてあるそうです。
 この時、盛岡一番隊には「官軍の証」として錦旗(きんき)が下賜されております。これを捧持した先方隊長の鮫島忠左衛門は感涙したと申します。
 錦旗を擁した沢田一番隊は、須賀川駅から再び北上しました。
「さぁ、庄内藩へ進撃を」
 福島の駅を抜け大河原村まで到着した盛岡一番隊は、仙台藩に対して錦旗を示して「進攻」すべく催促を繰り返すのですが、「農繁期で兵がそろわない」などと申して、駅馬などの輸送機関の提供にも応じなかったのであります。
 ここで一つの事件が勃発しております。
「錦旗を奉ずる者の進撃を拒むは、逆賊と同類でござろう。かかる上は、このむねを総督府に報告して盛岡藩は単独行動をとらざるを得まい」
 鮫島はこれまでの仙台藩兵のにえきらない行為を散々にののしったあげく、単身仙台に引き返そうとしたのであります。
 仙台藩士たちはこれにおどろいて、鮫島を途中に待ち伏せし襲いました。
 鮫島は錦旗奉じたままに暗殺されたのであります。
「共同作戦を取るべき友軍の隊長を暗殺(やる)とはなにごとか」
 大隊長沢田斉は仙台藩に対し厳重抗議するとともに、盛岡へ報告したのであります。
「勅令により庄内に向わんとする者を、しかも下賜された錦旗奉ずる者を暗殺とは明らかに朝敵、仙台藩とは速やかに手を切り独自の行動に移るべき」
 盛岡城に居る弥六郎済賢などは、青すじたてて主張したのです。
「怒りにまかせて仙台と手をきれば、仙台領に駐屯のわが軍が孤立する、ひいては結ばれようとしている奥羽列藩同盟を破壊するものとして、近隣諸藩の総攻撃を受けるやも知れぬ。どうしても共同戦線が叶わぬときは、まずわが軍を引き揚げることが先決、遠野どの、大事の前の小事としてしばらくたえられよ」
 家老南部監物(けんもつ)の強い主張で、弥六郎済賢もやむなく同意したのであります。
 結局この事件は、うやむやのうちに葬られてしまいました。
 果たして仙台藩には事情があったのであります。
 六十二万余石の仙台藩は、知ってのとおり伊達政宗以来三百年近くも、徳川幕府とともに生きた歴史をほこる東北の雄藩です。
 そしてまた奥州の旗頭である会津藩も、徳川幕府とは三代家光の弟保科正之(ほしなまさゆき)以来の結び付き、いまや将軍家家門をほこる家柄です。
 この、伊達家と会津家は特別の関係にありました。伊達家は昔から大の徳川党でありましたから、代々会津の松平家とは婚姻関係を結び親族の間柄です。当然のことながら政治的にも攻守同盟の密約を結んでおられたものです。両藩の間には、いまだかつてただ一度の紛争もなかったのでございました。
 仙台藩主綱頼(つなより)さまの母は、会津藩主容保さまの叔母であります。したがって、綱頼さまと容保さまは従兄弟同士という近親の間柄です。
 伊達家としては、いかに朝廷の命とはあれ、会津は攻めにくいのでありましょう。
 しかし、盛岡隊としては仙台との共同作戦ができないならば、もはや本国への引き揚げも辞さない剣幕です。
「会津を朝敵として進撃すれば、盟約違反となるばかりか、これは親族同士の戦となる、血族の会津に鉄砲を向けられると思うか。盛岡兵のことは今しばし捨ておけ」
「さればとて、どこまで会津藩との盟約を貫きとおせるか」
「会津に組みして薩長軍に刃向かえば、天朝に対して賊軍となる」
 仙台藩の苦慮の深さは、ここにありました。
 総督と申しますのは、本来ならば白粉を塗って口紅をひき、蹴毬をしたり歌などを詠んだりしているあのお公家さんです。
「麿は、戦はにがてじゃ」
 卑猥な遊びごとはどうか知りませんが、戦については単なるおけいこすら体験がありません。もとより好戦的なはずはないのです。
 しかし、戦場(いくさば)に引っぱりだされたいま、遊んでばかりはおられません。下参謀の薩摩の大山や、長州の世良にふりまわされながら指揮にあたらねばならないのです。
 前にも申しましたが総督の指示は、そのまま十六歳の幼帝(明治天皇)の命令となるのであります。結論はあきらかでありましょう。
「なにがゆえに出兵を遅延いたすか、もはや猶予ならぬ、すみやかに出兵しなければその分にはすておかぬ。朝命にそむく逆賊として処分いたすが、よいか」
 仙台藩軍務担当の但木土佐・坂英力(さかえいりき)両家老が呼びだされて、下参謀世良修蔵に最後通牒を突きつけられたのであります。二人はただ平伏するばかり、仙台藩としては、もはやこの命令は拝受するしかなかったのであります。
 仙台藩にも、いよいよ出陣のときがまいりました。
 奥羽鎮撫九条総督ら一行が観閲するなかで、藩兵総勢五千をそろえ、古式にのっとり大仰な出陣式が挙行されました。鞍上の総大将は藩主伊達中将慶邦さま、まさに戦国武将の藩祖伊達政宗公の勇姿を彷彿(ほうふつ)とさせるものでありました。
 じつに奥羽の雄藩、最後の出陣式にふさわしい華麗絵巻でありました。
「たのもしいのう。奥州とはいえ、さすがは伊達藩よ」
「麿が初めて目にする出陣式とやら、みごとなものじゃなぁ」
 いならぶ鎮撫総督一行、感嘆しきりでありましたとか。
 
(三)会津謝罪
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