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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
四、奥羽暗雲
 
(一)佐渡上洛
  慶応三年(一八六七年)、徳川慶喜さまが大政を奉還されるや、朝廷はこれを嘉納(かのう・喜んで迎える)してただちに王政復古の令を下し、全国各藩に対して御親兵と称して京都保護のための兵隊派遣を命じたのであります。
 もとより公武合体派(朝廷と幕府の協力体制)とは申せ、どちらかといえば尊王色の濃い盛岡藩です。
 大政奉還にもご親兵派遣令にも、何らの驚嘆も躊躇もなくこれに応じて、三戸式部(さんのへしきぶ)を侍大将とする銃隊(オランダ砲一門を中心とする)一中隊を編成して、ただちに北陸回りで京都に派遣したのであります。
 後の『戊辰戦役史』(大山柏著)などは、「南部藩の中でも楢山佐渡は佐幕色強く政局に疎い」とか「佐渡は具眼(ぐがん・物事の是非を判断する見識)の者に非ず」などと、いかに勝った者の立場から浴びせる批判だとしましても、それではあまりにも佐渡さまというお方を知らなすぎるのでございます。
 佐渡さまは、政局に敏感な方でもございました。
 この時の三戸銃隊派兵の処置一つをとりましてもお分かりいただけることかとぞんじます。
 さて、兵隊とは申しましても、その服装たるや裁付袴(たっつけばかま)あり膝切半纏(ひざきりはんてん)ありのにわか仕込みの隊列でございます。大半の兵卒たちとっては初めての上洛であります。
「こたな服装(もよし)で、笑止(しょうし)ぃことないか」
「天子さまの住まれる京の都とは、如何(なんじょ)なところか」
 三戸式部が京都に入る一歩手前の大津駅に到着したときでありました。
 かねて京都に潜入させておいた盛岡藩の密偵(しのび)たちが待ちうけておりまして、京都の政情について報告されております。
「京都は今、薩長連合軍と徳川慶喜が率いる幕府軍とが、まさに一触即発の危機でござんす。
 前将軍の徳川慶喜は、四万の大軍を擁して大阪城におりますが、いずれは機を見て京都さ上り、実力で新政府を樹立するつもりだろうとの噂でござんす。
 これに対して薩長軍は、鳥羽・伏見に関門を設けて、これを迎え撃とうとしているんでがんす。数こそ徳川の十分の一にも満たない、たったの四千足らずでがんすが、大砲だって鉄砲だって舶来の新兵器と聞きんした。勝敗のほどは一概に予断の許すところではながんす。
 こんたな情勢下ですから、かりにいま京都さ入れば如何(なんじょ)になりんすべぇ。当然に徳川方か薩長方か、どっちさか味方をすねばならないことになって、ひいては思わざる政争に巻き込まれかねながんす。
 今は、どこの藩だたってご親兵として派遣した兵隊を京都の町さば入れず、いつ戦闘が起こっても中立を保てる場所さ待機させて形勢を傍観(みて)るんでがんす。
 わが軍も、このまま大津さ止どまり同様の態度をとられては如何(なんじょ)でがんすべ」
 隊長の三戸式部は、事態の容易ならざる形勢に驚いて、「如何にあるべきや」と、盛岡当局に訓令を求めて早飛脚を走らせたのであります。
「これは、明らかに徳川と薩長の私闘である。かたく中立を守ってそのいずれにも荷担すべきではない」
 協議の結果打ち出された盛岡藩の基本方策でありました。
 この趣旨を飛脚に託して大津に居る式部に伝えるとともに、新たに武芸の立つ者を集めて、佐渡さまみずから京へ向けて出立なされたのでございます。
「温厚長者の風ある、三戸式部ひとりにては心もとない」
 念には念を、微細な気配りでございました。
 上洛の途にある総勢二百名ばかりの佐渡さまの一隊が、伊達領古川の駅舎近くの街道端で、藩印の幟を立てて小休止しておったときでございます。
 全疾走の早馬が駆けてまいりました。
 旗印は「向い鶴」、まさしく盛岡藩の定紋……。
「あの馬を止めよ」
 兵卒二、三人が、にわかに街道に飛び出して両手を広げて「どぉ!」と馬を制止して見れば、この者は三戸式部が本国に派遣する使者だったのです。
「年が明けて早々に、京都ではすでに徳川軍と薩長軍が開戦して、わずか一日の戦で徳川方が惨敗したもようでござんす」
 慶応四年(一八六八年)正月三日、伏見、鳥羽街道で会津・桑名藩兵と薩長藩兵との衝突に端を発した戦でありました。
 戊辰(ぼしん)戦争などと申すそうです。あるいは東西戦争とか南北戦争とおっしゃる方もおりますが、徳川幕府方のあっけない敗北に終わったのでございます。
「将軍慶喜侯は如何(なんじょ)にされたか」
「しかとは存じませんが、噂では京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)さまを引き連れて夜逃げ同様に城を抜け出して、軍艦海陽丸ですでに出帆されたとかでござんす……」
「していま、大阪城は」
「官軍の手さ落ち申したとか、これも噂でがんすが……」
 一月七日には将軍徳川慶喜追討令が、新政府の名で各藩に発せられております。
 徳川慶喜は北上する戦(いくさ)の舞台に先立って、はやばやと政権を返上して海路江戸に引き返したのであります。
 聞けば、鳥羽・伏見の衝突の際には、「絶対に退くな、最後の一兵になるとも死守せよ」と命じられていたそうですが、突如として家臣たちからも逃げるがごとくに帰られるとは、どうしたものでありましょう。
「街道は、大変な騒ぎになっている様相です。薩長藩兵は錦の御旗とかを陣頭に江戸攻めのために東海道を下りつつあるそうでがんす」
「連絡要員として、隊長以下何名かの者だけを残して、できるだけ早く本国盛岡に帰還せよ」
 使者に訓令を与えて京都へ戻らせ、
「我が隊も、今上洛しても詮もない」
 と、佐渡さまはここから盛岡に引き返されたのでございます。
 盛岡藩が、この事件(幕府崩壊)を正式に知ったのは正月十八日でした。
 南部藩の江戸家老野々村真澄が、江戸城に呼び出されてはじめてこの異変に接したのであります。
 東海道を下る薩長軍は次第に数を増してきました。沿道の諸藩は風を望んでくだり、ただの一藩もこれに抵抗しなかったとも申します。
 一方、江戸に戻られた徳川慶喜さまは恭順をもっぱらとして、交戦の意志などまったくなく、みずから上野の寛永寺に閉居して謹慎につとめました。
 名実ともに幕府は倒れたのでございます。
「しかるべき兵をもって至急上洛、御所の警護に当たられたし」
 三戸隊を帰還させて間もないというのに、ふたたび盛岡藩に対する勅令でした。
 西方の各藩兵たちは幕府討伐と称してにわかに江戸へ下り、京都の警護が手薄になったという理由で…。
 しかし、新政府には佐幕派の強い東北諸藩の防備を弱めようとする魂胆があったのかもしれません。
 ともかく、筆頭家老楢山佐渡さまは、みずから進んで正使となられて出発の準備に取りかかったのでございます。
 そうこうする間にも、忙しく飛脚やら早駕籠が到着しては断片的に新情報が入ってきます。
「会津藩討伐の朝勅が出されたらしい」
 それが、ほどなく盛岡藩にもまいりました。
「秋田、南部、米沢、伊達の各藩は、協力して会津を討つべし」
 これとて新政府の名の勅令であります。
「政府の命令とあらば、いたずらに躊躇(ちゅうちょ)すべきではない、まずは会津討伐隊を送り出してから、私は上洛(じょうらく)しよう」
 佐渡さまは、さっそくに会津出兵の準備に取りかかりました。
 大隊本部長に八戸(遠野南部)弥六郎済賢、第一番隊長に大目付沢田斉、第二番隊長軍師桜庭愛橘(さくらばあいきつ)、第三番隊長に番頭奥瀬伊左衛門の三大隊に編成、その陣容もあらまし整ったころに、またまた仙台藩からの使者であります。
「会津討伐はしばらく形勢を見てからでも遅くはない、出兵の猶予を朝廷に建白(けんぱく)すべく人を遣わしたので、その返事を待った上で行動をともにいたそう」
 しかし、どちらかといえば尊王色の濃い佐渡さまでございます。
「伊達(藩主慶邦)さまのご意向はもっともなれどこれは朝命、まず出兵いたしその後に建白いたすはいかがかと存じあげます」
 仙台藩に使者を送り、自身はただちに正使として京都に向うことにしたのです。
「この緊迫した情勢下に、直々筆頭家老の佐渡どのが上洛することもなかろう」
「御所警護には代理を送られたらいかがか」
「佐渡どのが不在では士気にもかかわり申す」
 家臣のなかからは強い具申もあったのですが、佐渡さまは佐渡さまで胸の内に思うところがあってのことだったのでございましょう。
 副使として用人目時隆之進、佐々木直作、書物頭戸来官助ら兵二百余人を引き連れて盛岡を発たれました。
 三月八日のことでございます。
 その前夜、佐渡さまは久しぶりにわが家(内丸の佐渡屋敷)にもどられて家人と夕食を共にされてございます。
 翌日は早朝の出立、家族総出(妻なか・父帯刀(たてわき)・長女貞(さだ)・次女浦(うら)・三女太禰(たね)・用人沢田弓太)のお見送りでございました。
 沢田家は、代々楢山家の老役を勤める家柄(閉伊郡川井村に相応の田畑を有す)です。弓太は、佐渡さまより二つばかり年上ですが、佐渡さまの父帯刀さまが家老の時代から楢山家の家計の面倒を見てくれている忠実な用人でありました。
「父上を頼むぞ」
「頼んだぞ、弓太」
 昨夜から降った雪も止んで、表通りは犬猫の足跡一つなく、一面の銀世界でありました。
 木戸門口まで出られた佐渡さまは、なか夫人と弓太に一言ずつ声をかけられると、新雪を踏みしめてふり向きもされずに足早に通りへ向われました。
 佐渡さまの踏まれた雪靴の跡が、じつに真っすぐに大手門の方に伸びて行くのでございました。
「一・二・三……一四・一五・一六」
 なか夫人は、佐渡さまの残された雪の上の足跡を、数えている風にも見えます。それはあたかも、佐渡家に嫁いでから流れた十六年の歳月を数える風でもありました。
 なかは、盛岡藩高知(高録)格の家臣奥瀬内蔵嵩棟の娘として天保二年(一八三一)に生まれております。
 嘉永五年(一八五二)、家老楢山帯刀さまの庶子佐渡さま(当時は五左衛門)が藩主利済さまの参勤発駕のお供をされて上府中に、国表でにわかにまとまった縁談でした。
 同年四月、佐渡さまの帰国を待っての挙式でございました。
 
(二)会津攻撃
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