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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
三、家老対決
 
(二)二人の確執
  安政元年(一八五四)二月、命により上府する利済さまにしたがって出府した佐渡さまは、利済さまの謹慎をみとどけたあとも江戸に残って関係方面への了解工作に奔走したのでございます。
「向後は、藩主利剛侯のもとに家臣一致して領民安泰の藩政を執行し、必ずやご納得いただけるような藩の創設に尽力いたしまする」
 しかし、続く不作とその対策にからんで長引く藩のお家騒動であります。
 ことさらに幕府の目がこれまで以上に厳しくなるのが必至でありましょう。盛岡城下には、つねに隠密の目が光っているとみなければなりません。
 佐渡さまの任務は一日も早く幕府の疑念を払拭させることにございました。
「ご謹慎中の利済、利義両侯の身辺を頼むぞ」
 謹慎の身のふたりはともに前藩主であり、佐渡さまにとっては叔父と従兄弟です。
 後見役との密接な連絡、調整をはかっておくことも大切です。
 東中務には国元で、佐渡さまの幕府への工作をうらづけるような藩政改革にあたってもらわねばなりません。
 事実、若い中務の改革は疾風迅雷の勢いで断行されていきました。
「これからの世の中は農民を絞るだけでは生きてはいけぬ、武士はまず冗費を節約して自らも汗する仕事に勤めねばならない。そのためには産業開発が重要となる」
 産業振興のため国産会所を設置して人材を配置して新田開発に着手しました。
 また、藩学校を拡張し教育改革の基礎づくりにもとりかかりました。
 さらに、大奥新御殿を破壊したり、奥州街道の遊郭を禁止するとともに、三百名を超す奥向き女中を五十名に減じてしまいました。
 そればかりではありません、横沢たちの採用した目付や同心などを百人ちかくも免職するなどして、節約の範を示していったのです。
 これだけの事業をわずか数ヵ月で次々とおしすすめるのですから、たちまち反響をよびおこし藩内は毀誉褒貶(きよほうへん)の岐路に立たされたのであります。
 とくにも中務の刷新で藩士たちを瞠目させたのは、前藩主利義さまの復辟(ふくえき)をはかって牢獄に囚われている十八人もの藩士たちを解きはなったことであります。
 ここまでやられると、さすがの利剛さまも容易には賛成しかねるのであります。
「かれらはみな、有能な者たちです。むしろ、主君に尽くそうとする志は立派なものであります。仇を忘れて用いてやってこそに、かれらはいっそう意気に感じて殿さまにも忠義を尽くすというものでございましょう」
「じゃが……」
「かれらを解きはなつことこそが、江戸の幕閣を安心させる最良手段かと存じます」
 ここまで言われては、利剛さまも同意しないわけにはいきません。
 それだけに利剛さまには、中務の存在がうとましくも思われるのでした。
 中務は、さらに利剛さまのお心をふみにじるような人事をすすめていったのです。
 側近のかなめである御近習頭を欠員にしてお側御用人の兼務にしたり、お側目付と奥御勘定奉行を欠員にして御納戸役に兼務させるといったやり方です。
「そこまでやらずとも……」
「そこまでやってみせねば、江戸の幕閣には通じません」
 中務はいつも幕閣の思惑を口にして押し切るのであります。
 ここまでやっておきながら、中務は人事の仕上げにとりかかったのです。新しい人材の登用です。
 上席家老の南部土佐は蟄居を命じられ、石原、田鎖、川島の三奸は家祿、家屋敷、家財没収のうえ追放となったからには、入れ替えに多くの新しい人材を登用しなければなりません。
 新渡戸伝(新渡戸稲造博士の祖父)、江幡五郎(獄死した江幡春庵の弟で吉田松陰とも交友があった)などと、門閥に関係なく次々と登用されてまいりましたが、ずいぶんと思い切った人事でありました。
 大目付に大矢勇太、横沢七郎、納戸頭に島川結城、戸田権太夫、下戸米深、町奉行兼郡奉行に目時隆之進、平山隆司、勘定奉行に奈良宮司、照井小平らの新進気鋭の藩士たちを抜擢したのです。
 これまでの利済路線では日の目をみることが少なかった人たちです。
 つまり前藩主利義派と申してもよいのです。かれらはこののち次郎派として結束し、やがて尊王派としてまとまるようになるのです。
「佐渡はまだもどらぬか」
 利剛さまが首を長くして待っている佐渡さまは、やっと七月になって盛岡にもどられました(このとき五左衛門から佐渡と改名)。
 反中務派の連中も、これを待っていたかのようにつぎつぎと佐渡さまの元に寄ってまいりました。
「あまりにも露骨な反利済路線ではなかろうか」
 産業開発の振興や教育改革の基礎づくりにしても、また冗費の節約にしても佐渡さまがかねて中務と打ち合わせたとおりです。
 だが、藩内の主要な地位はほとんど中務の息のかかった人物が座っておりますし、かつて逼塞(ひっそく)させられていた利義派の連中が大手を振って城下を徘徊(はいかい)していることも奇異でありました。
 生来が明るく、あまり他人を疑ったりすることの少ない佐渡さまでございますが、これはおかしいと思っても不思議はありません。
「派閥をつくるような事態だけは避けたい、中務君は、求めて得た協力者である」
 それでも、佐渡さまは中務を問い詰めるようなことはしませんでした。
 また、佐渡さまはご帰国のおりに、幕府から藩政改革の見返りとして貸下げの五千両という金で、財政の立て直しや塗炭の苦しみにあえぐ農民の救済をもおこないました。
 しかし多年にわたる悪政の残滓はまだまだありましたので、藩の財政は依然として苦しかったのであります。
「金の工面は、藩士の俸祿から借りあげるべきでござろう」
 藩士たちがいかに困窮しているかその実情を知らない中務の主張です。
「武士のくらしを苦しくすれば一朝有事のさいの動員力に影響してくる、それよりも新たな産業を興すべきではないか」
 佐渡さまは説得にかかりましたが、中務は強固でした。
「新たな産業を興して領民を苦しめるよりは、まず士分に列している者が犠牲になるべきでござろう」
 求めて得た協力者です、ここでかれを傷つけることは武士の誇りが許さないのです。
「しりぞくも武士(もののふ)の仁(じん)なり」
 佐渡さまはいさぎよく中務の意見をとりいれることにいたしました。
 全藩士に御用金を言い渡すことになったのです。
 藩主利剛さまも率先して木綿の衣服とするなど倹約につとめました。
 これがふたりの宿命的な意見の対立の緒でありました。
 まもなく参勤の利剛さまに同行して中務は江戸家老として上府することになります。
 これに同行した弥六郎はまず、いまは隠居させられて愛妾の田鶴なる女とひっそりと暮らしているという利義さまのご機嫌うかがいに江戸下屋敷にたずねました。
「巌鷲山の雪は溶けたか、国表の方はうまくいっているか、利剛もつつがないか」
 なつかしいのでありましょう、盛岡のことなどを話題にしてしばらく対談中でありました。
「国家老としての中務君の、はたらきは見事でございます」
「そうか、江戸家老として中務がまいったか、中務がきたか……」
 話題が次郎にふれたそのときでございました。なにを思ったか利義さまは、突如立ち上がって弥六郎にちかづき血相を変えて拳をふりあげられたのでございます。
 あの時(嘉永二年)の再現かとみえました。だが今度は、あきらかに乱心というのでございましょう。まなざしが虚ろでありました。
「余は知らぬ、父の毒殺など謀った覚えもなければ、百姓一揆煽動の覚えもないぞ」
 力まかせに弥六郎を打ちゃくするのです。
 利義さまのこの挙動はその後もたびたびおこりました。
「去月二日、美濃守(利剛)養祖父信濃守(利済)慎ミ仰セ付ケラレ候ミギリ、養父甲斐守(利義)モ政事向ニ拘ラズ、万事遠慮アルベキ処、近来トカク政事ニ携リ、我意相募リ、重臣等打チャク候等コレアリ、乱心同様ノ所行相聞エ候趣、右噂コレアルハ如何ノ事ニ候ヤ……」(内史略)
 この詰問状がきっかけになって、利義さまは座敷牢同然に監禁され外聞との交渉を遮断されたのであります。
 これまで利義さまと通じ合っていた者は処罰されましたし、監督責任者として、東中務も毛馬内典膳とともに江戸家老職を解かれたのであります。
 この情報は、ただちに盛岡に流れ反中務派の藩士たちは佐渡さまの周辺に集まってまいりました。
 かれらはことごとく中務の讒言(ざんげん)です。表面は治まったかにみえても、お家騒動の対立感情は燃えくすぶっているのでありました。
 藩内はすでに中務派、佐渡派と二分された格好です。源流には利義派、利剛派という藩主ご兄弟の確執がひそんでいるのです。
 翌年二月、中務は国元へ召喚され、ただちに家老職御免を申し付けられました。こうなれば、中務は協力者とはなりえません。
 佐渡さまみずからが藩政の頂点として立つ以外に道はありません。当面の課題は、藩の財政の立て直しでございます。
 はたして藩士の窮乏化は佐渡さまが予測のとおりでした。
 藩士のなかには衣食に困る者がでてまいりました。急がねばならないのは下級武士の救済です。
 急激に士気が衰えていくばかりです。
 佐渡さまは、藩士の御用金を廃止しましたが、藩の在庫を潤さないかぎり何一つ藩政は動かないのです。
 ここ数年は、藩の財政支出は急増の一途をたどばかりでした。
 嘉永の大一揆による痛手もまだ癒えないのに、安政二年からは東蝦夷地の警備を命じられ、幕府からさらに五千両の貸下げがあったものの、この程度の資金では焼け石に水です。大阪商人からの借入金をもって財政を補うことにしました。
 つまり中務の後始末ですが、この善意も中務側にしてみれば不愉快きわまりないことでありました。
 御用金は廃止したものの、対策に行き詰まった佐渡さまは、今度は藩士の家祿借り上げという非常手段にでたのでございます。
 嘉永の一揆のことを思えば領民への増税もできません、窮余の一策だったのです。しかし、これは藩士にとっては死活にかかわる大問題です。
 しだいに『佐渡無能説』を醸し出すことにもなるのでございます。
 思い煩った藩主と利剛さまは、謹慎中の中務に意見を求められたのでございました。
「国事多端のときなれば、一端緩急のときを思えば俸祿借り上げを続行して藩の力を蓄える以外に、非常時をのりきる策はなかろう」
「国事多端の折なればこそに、いまは俸祿借り上げを中止して、藩士の意識を改革し冗費を切り詰めて、藩内の産業を興すなどして打開をはかるべきでしょう」
 対して中務もあくまで自説を曲げませんでした。
 それにしても奇異な話……。かつては佐渡さまが説かれた産業開発論でございます。あのときに中務が説いたのは俸禄借り上げ説でありましたのに、いまは完全に主客転倒しているではありませんか。
「分かった、まず余が節約につとめよう、祿は借りまい」
 ほぼ一刻にもおよぶふたりの論争を聞いた利剛さまは結論をだされたのでございました。
 中務の方針が採択されたとあれば、佐渡さまは執政の座に止どまるわけにはいきません。またまた、立場を交替したのであります。
 安政五年(一八五八)に中務が再勤して、佐渡さまはお役御免となったのです。
 さっそく中務は、節約と産業振興の二策を推進していきました。
 その一つに、薩摩藩との貿易策がございました。南部藩からは硝子、大豆、昆布、銅を送り、薩摩からは絹布類、木綿類、古着類、砂糖、煙草、薬品、塩等を受ける仕組みです。
 また、蘭学者の大島高任に鹿角郡の小坂鉱山を開発させたのも中務の積極策です。
 しかし、先立つものは資金です、徹底的に財政切り詰めをはかったのです。
 藩の一般支出金七万両を一挙に一万両に減じました。
 どこをどう押せばこれだけの節約ができるものでしょう。当然に藩の実務は目に見えて渋滞してきたのです。
 さらに、濁酒のほかは一切の酒造を禁じ、余剰米十二万石をひねり出しました。
 ここまでくれば、庶民の生活を圧迫するばかりであります。
 またまた、中務に対する避難の声があがりました。
 
(三)尊王か佐幕か
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