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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
三、家老対決
 
(一)青年家老
  佐渡さまを語るときに、避けてとおれないのが、東中務(ひがしなかつかさ・のちの次郎)です。
 佐渡さまと東中務は、幕末の盛岡藩を代表する若き家老たちでございました。
 佐渡さまが「明」にあれば東は「暗」に、東が「明」にあれば佐渡さまは「暗」にと、つねに生き方が対照的でありました。
 やがて、佐渡さまは「死」、東は「生」の結末をむかえるのであります。
 南部藩では、藩主一門の御三家と高知衆(たかちしゅう)三十一家があり、家老職はこれらの家の中から選ばれるのが常でございます。東家も楢山家とならんで高知衆でありました。
 ですが、ふたりの若者が単に家格だけで求められたのではありません。
 とくにもいまは、元藩主利済さま、前藩主利義さまとあいついで、幕閣老中阿部伊勢守さまからじきじきに謹慎を申しわたされるといった藩の危急存亡のときであります。
 この難関を乗りきるにふさわしい器量の持ち主として抜擢されたのです。
 佐渡さまは天保二年(一八三一)生まれ、東は天保六年(一八三五)に生まれておりますから歳の差もわずかに四歳です。
 しかし、ふたりには決定的な相違点がありました。まずは生い立ちのちがいです。
 佐渡さまについては、前にものべましたように、藩主との深い血脈がございます。
 利済さまの側室烈子さまは、佐渡さまの父帯刀さまの妹君、しかも利義、利剛さまご兄弟はともに烈子さまの子ですから、佐渡さまとは従兄弟というご関係にあります。
 烈子さまは、側室と申しても利済さまが藩主になられる前からの結びつきであります。
 その後に迎えられた正室の雅子さまは翌年に流産ののち亡くなっておられますから、いまは事実上の正室として盛岡城大奥に権勢ならぶ者もない存在です。
 父の帯刀さまが首席家老として藩政をとりしきってこられたのも、佐渡さまが六歳にして城に上がり五歳上の利剛さまの相手役を務めることができたのも、そういった事情もあってのことでございましょう。
 とにかく、佐渡さまの生い立ちはきわめて恵まれておりました。広い城内で藩主の次男坊の遊び相手として、あかるくのびのびと育ったのでございます。
 くわえて、もって生まれた利発さでございます、なんの屈託もないおおらかな性格が培われていったことでございます。
 東中務の場合は、同じ高知衆とはいえ事情がちがいます。
 先祖は藩祖光行の次男二郎政行です。政行は、南部氏の故城三戸城の東、名久井館の館主であったところから東氏を名のっておりました。
 最初は知行三千石の大身でしたが一時家が途絶え、再興してから千石の知行となって中務の父の政博にいたっております。
「わが家は、もとはといえば三千石の高知衆」
 この政博は、日ごろからことのほか家格にこだわる古風な武人であったほかに、性格なのでしょうか、やや奇異な言動にでることがありました。
 心鬱すると衝動的に思いがけない行動にうつるのです。
「キツネたがりの東」、陰でこんな風にもささやかれました。いまでいう鬱病の症状なのでしょうか。
 このことから一つの悲劇が生じることになります。
 中務がまだ五歳になったばかりの正月のことでした。
 新年の賀宴に、藩主さまみずからが主な家臣に盃をあたえるという儀式がありました。
 すべて格式によってとり行なわれるので、盃拝領の序列には定めがあります。
 東家は御三家につぐ準一門、当然に高知衆一番に盃を受けることになるのです。
 ところがどうしたわけか、藩主利済さまは、政博に先立って軽輩出の家老横沢兵庫に与えてしまったのです。
「まずは兵庫、昨年はことのほかのはたらき、祝着じゃ」
 横沢兵庫の出自はあきらかではありませんが、最近までは側頭でありました。
 冷害の続く天保のころから、七福神という藩札の発行を提言したり、鉱山開発や塩の専売などと新しい経済政策にとりくんでにわかに引き立てられ、一気に加判の要職に登りつめたいわば経済官僚であります。
「なりあがり者に……」
 その横沢に先をこされたと思うと政博の臓腑(はらわた)は煮えくりかえるのです。
 その場はどうにか我慢できても、口にした酒が駕籠に揺られて体内にあふれるように回ってくると、堪えていた無念さがくりかえし心をさいなむのでしょう。
「ああ、ほにほに(ほんとうに)ほにごしぇやげる(腹が立つ)」
 家の門前で駕籠をおりるや一声叫び、脇差しを抜いて腹に刺し立て、そのままどっかと座り腹切って果てたのであります。
 邸の玄関に運び込まれたときには、すでに亡骸(なきがら)でありました。
「余への面(つら)あてであるか」
 利済さまは烈火のごとく怒って、東家の家祿と家屋敷を没収してしまったのです。
 藩主の命となればいたしかたありません、政博の妻は子供たちを連れて三戸の沖田面村に帰りひそかに暮らすことになったのでございました。
 中務の記憶は、こんな暗い思い出にはじまるのです。
「母上、中務はぜひとも家を再興(おこ)してみせます」
 中務もまた幼いときから親思いの賢い子でありました。
 貧困のなかで文武の道に励んでいるという噂は利済さまの耳にも入りました。
「東家を再興させてやれ」
 祿三百五十石とはいえ、政博横死の二年後にふたたび東氏を名のっております。
 事件の単純さと東家の由緒を思えば当然の処置でありましょう。
 いってみれば家格は同じとはいっても、佐渡さまと東中務の生い立ちにはこれだけの環境の相違(ちがい)がありました。
 さて、もう一つの相違は晴れ舞台への登場のしかたです。
 佐渡さまは、幼いときから鉄五郎さま(のちの藩主利剛)のお相手勤めでしたし、十五歳(弘化二年)で元服しそのまま一直線に藩主利済さまの側衆となったのです。
 一方の中務も十四歳で元服し(嘉永元年)はれて藩士となり、その年藩主となった利義さまの小姓役として登場したのであります。
 すべて偶然ではありますが、それぞれこういった藩主との結びつきをもちながら世継ぎ騒動の渦中に入っていったのでありました。
 当然に見るもの、聞くもの、感ずるものが違ってまいりましょう。
 しかもこの偶然が、二人の今後の人生を大きく支配することになるのです。
 たしかに多感な少年時代の環境が、今後の生き方に影響しないはずはありません。
「東は利義派で佐渡さまは利剛派」などと申す方もおりますが、それはこんな事情があってのことなのであります。
 少年東中務に少なからず影響をあたえた利義さまは、江戸生まれの江戸育ちです。
 藩主の世子は幼いときから上屋敷で育つならわしです。
 人質という意味があるにしても、老中や他の大名との交わりもありましょう、南部人でありながら江戸人として育ちますから、言葉にも南部なまりがありません。
 言葉の相違は文化の差です。三戸育ちの中務にとって利義さまは、これまでの南部弁を喋る周囲の人たちとは別世界の人のように輝いて見えるのでした。
 ぼてぼてと重苦しく聞こえる南部弁などは、次郎には狭い片田舎のことばにすぎないと思われるのでありました。
「殿さまのおことばは早口で聞きずらい、江戸弁は冷たくて情がない」
 藩士のなかにはそんなことを申す者もいるのですが、中務はできるだけ利義さまの言葉をまねるようにつとめました。
「これからの時代は、南部人も江戸弁を自在に喋れないと世の中を渡れないよ」
 利義さまはそういって、流暢な江戸弁でよく江戸の話を聞かせてくれました。
 次郎はまだ見たこともない広い世界を夢見ているように胸をおどらせるのでした。
 佐渡さまと東中務の違いはこんなところにもみえているのです。
 ところで、この東を家老役に推挙したのが佐渡さまでございました。
「内政の難局をのりきるために、ぜひ中務くんの力を借りよう」
 そのとき、佐渡さまの耳に妙な噂がとびこんできました。
「このたびの一揆を煽動した利義派の浪士たちと、内密している者がかならず城内にいると思われるが、それが東中務ではなかろうか」
「利済さまの寝酒へ毒を盛ったという事件は迷宮入りの様相をみせてはいるが、はたしてその線上に、中務はつながっていないのであろうか」
 なんの根拠があってという話題でもありませんが、家臣たちの噂話であります。
 しかし、なみいる高知衆のなかから加判列として抜擢される十九歳の青年に対する嫉妬ばかりとも思われません。噂されるだけの動機もないわけではないのです。
 かつて、中務の父政博の横死で利済さまに家祿をつぶされて、次郎母子はどれほどの艱難を強いられ、悔しい思いをし、藩主利済さまを恨みもしたことでありましょう。
 東次郎、小姓となってからも、藩主利義さまが利済さまから受ける仕打ちをいやというほどに見てきたのです、そのつど利済さまに対する恨みも深まってくるはずでもあります。
 と、疑えば疑えないこともないのですが、佐渡さまは滅多なことでひとを疑うということをしませんでした。
「あの中務にかぎってそのようなことは考えられない。それより、この難局を乗り切るために、今はなんぼでも早くかれを必要としているのだ」
 佐渡さまは、若いかれを加判に推挙したのでございました。
「南部藩は、いまこそ古い体質から脱皮しなければならない、そのためにはぜひ中務くんの敏腕にすがりたい、ご助力をねがいたい」
 もとより中務は、一も二もなく承知したのでありました。
 さて、ふたりの生い立ちをここまで申しましたのには、深いわけがあってのことでございます。
 同じ高知衆とはいえ楢山家と東家の門閥の差が、そのまま後の戊辰戦争の姿だったと思うからでございます。
 戊辰戦争は上級武士と下級武士との戦い、いわば階級闘争でもあったのでございます。
 
(二)二人の確執
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