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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
二、青年家老
 
(三)百姓一揆
  嘉永二年(一八四九)、鉄五郎さまは上府して新藩主を拝命、美濃守利剛(としひさ)を名乗ることになりました。利剛さまに同行された佐渡さまには、やはり従兄弟にあたります。
 父利済さまは、この利剛さまをことのほか寵愛しておりました。
「藩主は、それほどの明賢を必要としない」
 兄のような利発さはともかく、自分(父)に対して従順なところがなによりだったのでありましょう。
 藩の政治はもはや利済さまのなすがままでした。こうして院政は、だれに気がねすることもなく公然とつづくのであります。
「利義は乱心などではない、利済派の奸計である」
 そのころ、上府中の奥医師江幡春庵は、江戸の儒者東条一堂らと謀(はか)って国元の同志へよびかけて利義さまご復権の運動をおこしたのであります。
 しかし、事前に発覚し江幡春庵は捕らわれて盛岡に護送され獄死、多くの同志も幽閉や永牢、家祿没収と厳罰に処せられたのでありました。
 藩内はまさに暗黒に閉ざされたのであります。身辺に危険を感じた藩士たちも、次々と脱藩して姿を消していきました。
 お家騒動も新政派が挫折のままにしばらくは鎮静状態がつづいておりました。
 そうしたさなかの嘉永五年(一八五二)九月に、佐渡さまに加判列の命が下ったのでございます。
 五月に近習頭になったばかりでございました。
 加判列というのは家老心得といったところでしょうか、家柄とはいえ大抜擢でありました。
 しかし、出世とはいえ家老職は執行者ではないのです。
 悪政の原因が、利済さまが贅沢好みの独裁者であるところにあるとはいえ、佐渡さまが憎むのは、それを奸となり増長させつづける側近の若年寄りたちなのです。
 これまで長いあいだ利済さまの側衆として、正義が道理としてとおらないほどに腐敗をした藩政の裏舞台をいやというほどみてまいりました。
 どれほどに、やるかたない思いをつのらせたことでありましょう。
 今後は利済さまの側をはなれ、できれば代官となり地方の農政に当たってみたいとも思うのでありました。
「地方へ出向し、陸奥、陸中あたりの農民の実情にふれたいと存じます」
 しかし佐渡さまの望みはかないませんでした。
「それはならぬ。家老の子に生まれ家老の子として育った五左衛門の行く道は、家老以外にはない。家格のみを申すのではない、なによりもそなたの才能と識見をみこんでの頼みじゃ。若い藩主には若い家老がふさわしい、利剛を助けてはくれまいか」
 明けて嘉永六年(一八五三)二月、正加判に任じられたのでございます。
 佐渡さま二十三歳でございました。
 ところが同年の五月、史上空前といわれた弘化の百姓一揆をさらにうわまわるほどの一揆が、ふたたび野田通りを拠点として勃発(ぼっぱつ)したのであります。
 表向きは前の一揆鎮撫のさいに公約した新税免除とは名ばかりで、別の形の御用金となり、年々増額されて農民の生活をおびやかしているというものであります。
 一揆は栗林村の命助(めいすけ)なる者を指導者として、燎原(りょうげん)の火のごとく陸中海岸筋を南下したのであります。日ごとに参加数をふやして三万五千人というまさに南部藩はじまって以来の大人数でありました。
 しかも一糸みだれない統制下に仙台領へ越訴(えっそ)するというのです。
 はたして、この整然とした行動は農民だけでとれるものでしょうか。
 指導者のなかには白い覆面の姿もあったと申しますからおそらくは、前に脱藩した反利済派の者が加わっていたとみてよろしいかと存じます。
「前の一揆に、とことん絞ってしまわなかった膿(うみ)がわきでたのじゃ、こんどこそ鉄砲隊を派遣して百姓どもを痛いめにあわせるがよい」
 利済さまをはじめ側近の者たちは、あいかわらずの武力鎮圧のかまえでした。
 佐渡さまは今は重臣でございます。八戸弥六郎(遠野)とともに登城し隠居の利済さまに会見を求めたのであります。
「百姓どもがなにを望むとも、ご隠居(利済)さまは貴殿らとは会わぬと申される」
 南部土佐をはじめとする、例の三奸が会見をはばもうとするのであります。
「黙れ、火急の大事じゃ」
 しかし佐渡さま、両手を広げてあくまでさえぎろうとする側近の石原と田鎖らをどなりつけながら大奥にふみこんだのでございます。
「弘化の押し寄せとはちがいまする、重税だけに抗しているのではございません。
 いわば世直し一揆でございます。
 まず百姓たちの要求を聞き入れておだやかにこれを鎮撫し、越境だけは是が非でも阻止することでございましょう」
「黙れ、五左衛門に弥六郎、許可(ゆるし)もなく奥へふみとおっての雑言(ぞうごん)とは無礼千万……。両名ともに謹慎じゃ、閉門じゃ、解職じゃ」
 笛吹峠を越えて遠野へ来ると予想された大群は、さらに南下し篠倉峠を越え唐丹村(伊達領)に駐在の仙台藩役人に「お願い申す」と押し入ったのでありました。
一、江戸表御隠居成され候甲斐守(利義)様御事、御入国成され候様願上げ奉り候。
一、三閉伊通り逃げ罷候百姓共一統、御慈悲をもって御抱え露命御助け成し下され度、  願いの通り仰付けられ候はば、一統有難き仕合に存じ奉り候。此段奉願上候。
一、三閉伊通り公儀御領に仰せ付け下され度、此儀成りかね候はば、仙台様御領にな  し下され度候様願上候事。
 そして、都合五十二条にわたる願い書をさしだしたのであります。
 当然のことですが、仙台藩からの通報であります。
「今般、拙藩に越境せし尊藩の御百姓と名乗る四十五名之者を保護致し候、近く事情聴取の上江戸幕府に報告仕り裁断を仰ぐべき所存に候。なお頭目の命助なる者の申すには、此が解決には貴藩家老南部弥六郎殿と楢山五左衛門殿両名を差し向ける以外は一切交渉に応ぜざる由、右御承知下され度云々」
 この両名(弥六郎と五左衛門)が、すでに利済さまの怒りにふれて解職されていることを知ってのことでありましょう。
 ことの重大さに驚いた利済さまは、やむをえず解職した佐渡さまらを復職させ城中に呼びよせたのであります。
 佐渡さま、弥六郎とともに白装束で登城いたしました。
 決死の覚悟でございます。
「この善後策は、両名にてよきにはからえ」
「ついては、お願いの儀がございます、もしこの非常事態を切りぬけましたのちは、しばらく藩政のすべてを我々両名にお任せいただきますよう……」
 佐渡さまは、すぐさま早馬を江戸家老向井大和に向けたのでございます。
 まず急がねばならないことは、在府中の仙台藩主への願い出でございます。
一、幕府への届け出をしばらく猶予してほしい。
一、原因はすべて拙藩の悪政にあるので、農民の願意は全面的に認める方針である。
一、したがって先導者の責任も不問とし、全員の藩内復帰への協力を願う。
 向井大和からは、折り返し仙台藩主の内諾を得たむねの早馬が飛んできました。
 すぐさま弥六郎を仙台にとばし、城下に保護されている首謀者三浦命助をふくむ四十五名の引き渡しを無事に終えたのでございます。
 こうして、農民運動史上に残るさしもの大一揆も、形の上では終止符をうったのであります。
 しかし、越境して世間をさわがせたばかりか、この騒動は幕府の関与するところとなりましたのでこのままですむはずもございません。
 幸か不幸かその年、ペリーの黒船来航で国内は大きく動揺していたせいでもありましょう、幕府からの沙汰があったのはようやく年を越してからでございました。
 藩主利剛さまに対する謹慎の申しつけと、隠居の利済さまには責任者として上府せよとの命でありました。
 利済さまが上府となれば、軽くとも永久閉門はまぬがれませんし、重ければ切腹です。利済さまはいろいろと弁をろうして上府をこばんだと申します。
「ご隠居さま、五左衛門が同行いたします。いかなる沙汰になりましょうとも、この五左衛門がお側を離れずにお力となりましょう、ご安心してお駕籠に……」
 ようようにして駕籠に身を入れるといったありさまです。
 普通なら江戸まで十六日間もあれば到着するのですが、このときは一ヶ月余りも費やし、江戸南部屋敷に到着されたのは二月二十二日でした。
 翌日はただちに、佐渡さま同行で老中主座の阿部伊勢守邸へ出頭しましたが、下問に対しましてはいちいち佐渡さまがよどみなく申しひらきをなさいました。
「其方儀、隠居の身と申しながら、政事をほしいままにして民百姓を苦しめたる常々の行跡また許しがたく…、厳重の沙汰におよぶべきところ、格別のご宥恕をもって芝高輪の美濃守(利剛)屋敷へ永久閉居申し付ける」
 永久閉居とは一切の外出を禁止されるもの、さすがに我意強情の利済さまも弱りはて病を発して翌安政二年(一八五五)四月に死去されました。
 一方利済さまの側近で、その悪政を助けたとしてその責めを問われたのが、家老南部土佐、横沢兵庫が筆頭で、御役御免のうえ家祿半減、永久閉居を命じられました。
 例の三奸として領民から憎悪の的(まと)とされた石原汀、田鎖茂左衛門、川島杢左衛門らもまた家祿屋敷を没収のうえ召しかかえを放たれたのであります。
 この三人のほかにも、これまでの役人で領民から憎まれていた者たちは御役御免のうえそれぞれ罰せられております。
 老中阿部伊勢守さまからの下達とは申しましても、すべて佐渡さまの周到な上申書によるものでございます。
「美濃守利剛はお構いなし、ただし前代の非政を改めるよう努めよ」
 利剛さまが不問となりますと、あわれなのは利義派の浪人たちでありました。
「押し寄せを扇動して大事に至らしめ、幕府の干渉にまでこぎつけたのに」
 江戸において隠居中の利義さまに、再起の道があり得ないことになれば、この浪人たちの身分の回復はのぞめるものではありません。
 もっとも、肝心の利義さまにはその気がまったくなかったようであります。
「父利済が閉居とは痛快だ」
 一門に謹慎者を出せば一族の者もまた謹慎するのを常例とするのですが、利義さまは江戸郊外に狩りに出たり、遊里に足しげく通ったりするようになったのであります。
 この咎のためとして改めて阿部伊勢守さまから、父同様に永久閉居を命じられたのでありました。
 さて、国元では内政改革にとりかからなければなりません。佐渡さまはその構想を練るにおよんで自分よりも若い協力者を求めたのですが、もとより現体制のなかからは適任者がみつかりません。
「そうだ、東中務(ひがしなかつかさ・のちの次郎)くんがいる」
 佐渡さまが白羽の矢を立てたのが、わずか一年たらずですが藩主利義さまの小姓役をつとめた十九歳の青年であります。
 いまは利義さまの閉居とともに解職されてはいるが、家柄からいっても申し分がなく、なによりも若くて学識もあり英気颯爽とした青年であります。
 東中務も前例のない若さで家老となったのでありました。
 実はこの東中務との出会いが、佐渡さまにとって数奇の運命につながろうとは、いまは知る由もありません。
 
三、家老対決(1)青年家老
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