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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
二、青年家老
 
(二)世継ぎ騒動
  天保十四年(一八四三)、佐渡さま(十三歳)がお小姓を命ぜられた年でございますが、たび重なる一揆に処して利済さまも税制改革をおこないました。
「軒別銭として一律定額(一貫八百匁)を五十年という年限で賦課する。そのかわり今後は、御用金など一切の租税を廃止する。しかもこの軒別銭は、貧しいものは半分とか三分の一、富めるものは五軒分とか十軒分というように配分する」
「それだば、良ぇかんべ」
 貧富の差を考慮し、一見妥当なものでしたから領民たちも納得したのであります。
 ところが、その徴収たるや以前にも増してきびしいものでありました。
 督促役人の食事や宿泊など賄い(まかない)のすべては村方でもつ、そのほかに役人ひとりにつき日当として二百文を負担するというものであります。
 あいかわらず利済さまの贅沢放恣(ぜいたくほうし)の悪政はつづくのでした。
「外船警備のため、特別御用金として五万二千五百両を献納せよ」
 しかも、前の約束をやぶって、御用金の献納命令でございました。
 弘化四年(一八四七)十一月、ついに領民たちは決起したのであります。
 三陸沿岸野田通りに発生した一揆は、史上まれなる規模でございました。
 遠野城下早瀬川原に結集した参加農民は、一万二千とも一万五千ともいわれておるほどです。
 その頃、盛岡藩に三奸といわれる若年寄がおりました。石原汀、田鎖左膳、川島杢左衛門でございます。
 いずれも財政再建を担当していたのですが、奸曲のことが多く、利済さまの横暴を助長するような動きをするものですから悪政は長引くばかりです。
 とくに石原汀は、利済さまの生母である油の御前といわれる町家出身の「お米の方」の血縁筋にあたり、利済さまの寵愛(ちょうあい)このうえないのであります。
「百姓一揆の鎮圧に、鉄砲隊をくりだしてはいかがでござろう」
 石原汀の発案であります。
 この(弘化四年)の一揆のときは佐渡さまも、十七歳でございました。
 すでに側衆に召されて二年でございます。
 かの三奸のことを思えば佐渡さまの腹は煮えくりかえるようでございました。
「おそれながら申しあげます。押し寄せ(一揆)に対して鉄砲隊などをさし向けたとあっては、後日に江戸幕府の干渉をもうけかねません。ここは農民が爆発したる原因をつぶさに問い糺(ただ)し、もしも行政に不都合があってのことであれば当然にその基を改める意外に方途(みち)がなかろうとぞんじまするが」
 たまりかねた佐渡さま、側役の身で口をだしてしまったのでございます。
「小姓の分際で藩主に意見とはさしでがましい、楢山五左衛門にそっこく謹慎を申しつける。ついては、父の帯刀には監視役をおおせつける」
 石原ら三奸にしてみれば、たびたび直諌におよぶ重臣の帯刀さまもまた目の上のこぶでございます。つまり、親子ともども閉門の危にあわれたのでございます。
 謹慎の身の佐渡さまは、登城はもとより外出もできません。
 居室におって刀を抜いてみたり、はてはそのまま真剣で素振りなどをなさったりしておちつきません。
 若年とはいえすでに戸田一心流道場の高弟です。
 その剣は実に鋭いのでございます。
「三奸を斬り切腹いたす」
 もしかして、そんなことを言いだして外にとびだしはしまいかと、父帯刀さまにしてみれば心配にございました。
「剣をおさめて、いまは静かに時機を待つのじゃ」
「五左衛門は武士でござる。まことの武士はいたずらに暴挙などいたしませぬ」
 佐渡さまは、こう言って父帯刀を安心させたと申します。
 さて、一揆の話であります。
「百姓は生かさず、殺さず」
 つねに農民には首枷(くびかせ)をはめているのであります。
 はげしく抵抗してくればこれをゆるめ、おとなしくなればまた締めつける、それがこれまでの藩農政の常道なのでございました。
 当初、短期間で鎮撫できるものとたかをくくっていたのですが、今回は少しようすが変であります。
 本藩上席家老南部土佐がじきじきに遠野に出むいていきました。
「何が不満か、事情によっては聞きとどけるにより話してみよ」
「……」
 ところが、南部土佐に何を問われても口を開かないのであります。
 なだめてもすかしても一万数千の農民たちは、不気味にも終始無言でありました。
「盛岡本藩には、これまでなんども騙(だま)されてきもすた、頼んでも信頼(あて)にならない」
 こういった様相です。
 もともと、この一揆の特徴は、決して上納金の不払いを要求するものではありませんでした。
「俺ぁたち南部の百姓は、なんぼ稼んでも稼んでもどうせ上納金も納めれねぇがら、しばらく伊達領さでも行って稼んでき申す」
 大挙して仙台領へ出稼ぎにでてその労賃をもって支払うというもの、もしも一万数千の農民たちがこのまま仙台藩に入ったとなれば一大事でありましょう。
 南部藩の恥を天下にさらすことはあきらかであります。
 一揆鎮撫の容易ならざる経緯については、本論の枠外でございますから詳細ははぶきますが、こんどばかりは鎮圧一点ばりにはいきそうにありません。
 進退きわまった南部土佐も、新税、御用金、濁酒税、問屋税等々十二ヵ条を免除することとして事態を収拾しようとしたのであります。
 遠野支藩南部弥六郎義普(よしひろ)は、このときの功労として利済さまの一の字を拝領し、名を済賢(ただかつ)とあらためておりますが、遠野城代(留守居)新田小十郎らの機転で、伊達領への越藩もかろうじてまぬがれ、ひとまず鎮撫するにいたったのであります。
 しかし、この騒動が江戸の幕府に知れぬはずはありません。
 ときの老中阿部伊勢守正弘さまの内意ということで、やむなく藩主利済さまは幕府に病気隠退を願いいで世子利義さまが三十九代の藩主となられたのでございます。
 嘉永元年(一八四八)、南部甲斐守利義さまは二十六歳の若き藩主となりました。
 佐渡さまより七歳年長であります。江戸生まれの江戸育ち、若くして英才のほまれが高く水戸烈公などにもその将来を嘱望されていたと申します。
 正義派は、こんどこそ念願の藩政改革ができる、かの三奸も排除できると利義新政に期待したのであります。
 ところが、江戸で相続した利義さまが入国する段におよんで期待が裏切られたのであります。
 隠居の利済さまが新藩主となった世子利義さまとの面会を避けられるのでありました。
「会いたくはない、利義に会わない」
 国譲りの儀を執り行なおうともされません。
 この親子不仲の原因については、確かなことは分かりかねますがいろいろと噂はありました。
 まず、利義さまがまだ達次郎と称されておられたころに父利済さまの悪政を批判して大喧嘩をされたことがあり、そのしこりが尾を引いているというのであります。
 また一説には、利義夫人の豊子が自殺したのは、酔いに乗じた藩主利済さまに辱めをうけたためだとして、父を妻の仇にしているいうことでもあります。
 いつも側にいる佐渡さまならば、虚実のほどを知らないこともないのですが、側衆には秘守義務がございます、佐渡さまならずとも明かすべくもございません。
 それはともかく、この確執を憂慮した原直記(後の宰相原敬の祖父)ら重臣が極力その仲をとりもって、やっとのことで三ヶ月後に対面がおこなわれましたが、それとても形式だけのものでありました。
「少将どのの御尊顔を拝し奉り、祝着至極に存じあげます」
 利済さまは顔を横に向けたままで、「利義、大儀」とも申しません。
 新藩主利義さまの口上を無視しておられます、いやこれは拒否されているのでございました。
 まるで、世子利義さまの藩主を認めないといった気配であります。
 事実、南部土佐をはじめ石原、田鎖、川島の三奸があいかわらず側近として政務を執っております。
 あきらかにこれは院政の形であります。やむを得ず利義さまは清水御殿に起居して、公式の場合以外は城中に姿をみせなくなったのであります。
「百姓一揆の原因は利済および側近たちの悪政にあった。その責めを負い隠居して利義に政権を移譲したうえは、ご新政にいちいちのお口出しは如何かと存じあげる」
 こう責める新政派に対して、利済派も退きません。
「お代替わりといっても政治には長い間の伝統もあれば習慣もある、革新政治の名のもとに無差別に改廃するは、これまでの政権の責任者として座視できない」
 二派に分かれていがみあうばかりでありました。
 そんな最中に起こったのが、利済さまの寝酒に毒が入っていたという騒動です。
 これとても、真偽のほどはまったく分かりません。
「利義派の若い家臣たちによる利済暗殺の陰謀に相違ない」
「いや、藩主利義の引退口実を謀った利済派の捏造(ねつぞう)であろう」
 双方とも一歩も譲らず、激しく対立するばかりであります。
 楢山帯刀(佐渡の父)さまと原直記らは、この危機を打開しようと利済さまに直諌をおこない、またもや閉門を申しわたされてしまいました。
 そうこうしているうちに、翌嘉永二年(一八四九)六月、利義さまは参勤のために江戸へ上ることになったのでございます。
 父利済さまに出立のあいさつのため面会を申しでましたが、取り次ぎさえしてもらえなかったのです。
「それほどに、この利義が憎いのか……」
 藩主利義さまはかぎりない悔しさを背負って盛岡を出立されたのであります。
 上府してからも、いたずらに神経が興奮(たかぶる)ばかりで眠れない夜がつづきました。
 かつて英邁(えいまい)の世子といわれた利義さまも、ときとして精神も錯乱しかねないような悶々の生活をおくられたのでございました。
 利義さまが出立後、さっそく利済派を中心に利義さま廃立のことが議せられております。
「利義の後継ぎとして鉄五郎利剛(利義の弟)をあてる」
 利済さまは、英才の利義さまを嫌い、温厚な利剛さまを寵愛していたのであります。
 やがて、土佐と弥六郎が利義さまに隠居をすすめる使者として上府してまいります。
「父からの勧告とな、きかぬ、絶対にきかぬぞ。親を毒殺などと申すいわれなき嫌疑で隠居させるとは心外である。だが弥六郎どの、仮に病気を理由の隠居願いならばどうじゃろう。毒殺の嫌疑ではないぞ、そうだ余が、乱心したとあらばどうじゃな」
 利義さまは突然立ちあがって歩み寄り、弥六郎の頭を叩きだしたではありませんか。
「弥六郎、ゆるせ。余は乱心じゃ」
「おやめください、お殿さま」
 あわてて取りすがったのは、小姓の東中務(ひがしなかつかさ・のちの次郎)でした。
「中務くん、止めてくれるな。無念じゃが、余は乱心じゃ」
 中務は泣き出してしまいました。弥六郎はじっと平伏(ひれふ)したままであります。
「お殿さま、もったいのうございます」
 弥六郎は、これに抵抗するでもなく叩かれつづけるのでした。
 利義さまの突然の乱心に、当然ながら周囲の者がさわぎだしたのであります。
「国老第一の弥六郎どのを殴打されるとは、まさにご狂乱のあかしである」
 これが老中阿部伊勢守正弘さまの知るところとなり、隠居願いはただちに受理され、甲斐守利義さまは相続以来わずか二年たらずで失脚したのであります。
 
(三)百姓一揆
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