北の杜編集工房トップページ - 北の杜編集工房会社概要 - 北の杜編集工房北の杜文庫のご案内北の杜文庫別冊・人物ドキュメント文庫北の杜文庫・単行本作品リスト - 北の杜編集工房お問い合せ - 北の杜編集工房
北の杜編集工房 
北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
二、青年家老
 
(一)佐渡出自
  報恩寺の一室で、無念の最期をとげられた楢山佐渡さまの生い立ちでございます。
 楢山家は、南部侯廿二世政康の四男紀伊守信房を始祖といたします。
 信房は、はじめ三戸郡石亀村に住み石亀氏を名のっておりましたが、後に(孫の直隆)同郡の楢山村に移り楢山氏を称するようになりました。
 信房から十代後の子孫を楢山隆冀(たかくに・通称は帯刀)と申しました。
 一門は代々千二百石の南部侯の普代家老の家柄で、帯刀さまもまた家老として三十八代藩主信濃守利済(としただ)さまにつかえております。
 また、利済夫人の烈子さまは帯刀さまの妹君であり、達次郎(三十九代利義)さまや鉄五郎(四十代利剛)さまらの母上でございます。
 佐渡さまは、天保二年(一八三一)五月に、家老楢山帯刀さまの庶子(名は隆吉、通称は五左衛門)として生まれ、盛岡で育っております。
 幼名を茂太と申しました。
「楢山さんとこのお坊っちゃんは、なんて利発なお顔でござんすごど」
「いまに、きっと立派なご家老さまになりあんすんだ」
 近所の評判でございました。
 たしかに佐渡さまは、幼いときから賢くて活発な子でありました。
 三歳のときには乳母の手をはなれ、表座敷で側使いの家来たちを相手に遊んだりしておられたそうでございます。
「茂太さん、広小路にも遊びにおでんせ」
 叔母烈子さまの誘いで、四、五歳ごろから広小路にも足をはこぶようになりました。
 広小路というのは、叔母烈子さまやいとこの鉄五郎(利剛)さまらが住んでいる新築したばかりの御殿です。
 当時、鉄五郎さまの兄の達次郎さまは、六歳のときから正式に公子の「御相手勤め」として召しだされ江戸南部屋敷に住んでおりましたから、佐渡さまはいつも弟君の鉄五郎さまといっしょに文武の業をみがかれていったのでございます。
「もうやめて、また明日にしよう」
 鉄五郎さまが寝所にさがられてからも、佐渡さまはひとり草紙の手習いや論語の素読を深夜まで続けることしばしばでありました。
 退出時は、夜の九つ(十二時)ごろになることよくありました。
 やはりそのころのことでございます。
 藩主利済さまが城内の蓬莱馬場で乗馬を試みられたおり、佐渡さまを同席させたのでございます。
「茂太も、乗りたいか」
「はい、お殿さま」
 ひとりで馬にまたがった佐渡さまは、口付きの者を退かせて、轡(くつわ)をあやつり鐙(あぶみ)を踏張ってかけ声も高々と駆け出したのでございます。
「茂太、あっぱれじゃ、褒美として紋付きの馬具をあたえよう」
 もちろん、佐渡さま、はじめての乗馬ではございません。
 すでに馬術師範の斉藤紋左衛門から指導を受けていたのでございます。
 本来は高格武士の家柄ですから、文武ともにしかるべき師範を招いて教育されるのが普通ですが、父の帯刀さまが厳しく家憲を守り一切そのようなことはしませんでした。
 常に早朝とか、勤務を終えてからの道場や藩校へのお通いでございました。
 書は楢山備、経書の素読は大沼金太郎、講義は奥山弥七、下田春治、藤井又蔵、剣術は長嶺七之丞、伊藤半之丞、弓道は赤沢忠助、石亀千春、槍術は江釣子貞七、青木俊助、馬術は斉藤紋左衛門にと、元服されてからもかたときだって学問も武芸も怠ることはございませんでした。
 七歳の時に戸田一心流の道場に入門された佐渡さまは、とくに膂力(りょりょく・筋肉の力)が強く、相撲では五歳上の鉄五郎さまを負かすほどですから剣術もめきめき上達しました。
 早くも十六歳にして戸田一心流の高弟に列してございます。
 父帯刀(たてわき)さまには、男女の子供が数多(あまた)ございます。
 先妻は奥瀬内蔵の妹でございますが、一女(多代・長じて遠野弥六郎の妻となる)を生んで病死されました。
 後妻にむかえた八戸美濃の娘は数年経っても懐妊しなかったので、そこで栗谷川五郎左衛門の妹ゑきを妾(めかけ)とし、佐渡さまや妹の糸子が生まれました。
 またその後、里世という妾を召しまして、富子や常弥・類子と照子と数名の子宝にめぐまれて、人もうらやむほどのにぎやかな家柄となったのでございます。
「茂太兄(あに)さま、兄さま、むかし噺(ばなし)を聞かせて」
 佐渡さまはお噺がじょうずで、よく頼光の四天王や鋼金時など、強い者の物語を得意とされました。
 弟妹たちは佐渡さまを慕っておりましたし、佐渡さまもまた弟妹たちに対しては、じつにお優しい兄上でございました。
「弟や妹たちにあたえたい」
 夜学のあとで、広小路御殿でいただくお夜食などは、自分の重箱に入れて持ち帰ることもしばしばございました。
 家来や朋友(ともだち)や小者に対しても決しておごり高ぶるようなことはありませんでした。
 むかし噺を好んで聴いたり話したり、頼光の四天王や鋼金時など、常に強いものの物語をよろこばれました。
「母上、小鳥たちは元気ですか」
 嫡母(ちゃくぼ・帯刀の後妻・八戸美濃の娘)は眼病のためものを見て楽しむこともできず、なぐさめとする子もなく、ただ小鳥数十羽の飼育を楽しまれておりました。
 佐渡さまは、登城の行き帰りにはきまって、ここに顔を出されるのでございました。
「茂太さん、いつもいつもお申しわけながんすよ」
 小鳥のえさ代として多少の金子をさしあげたり、その日に見聞きしたことを語ってなぐさめられるなど、実の子にもおよばないほどのやさしさでございました。
 先をいそぎますが、天保十四年、佐渡さまは十三歳にして御小姓を命ぜられ、弘化二年(一八四五)十五歳で元服、名も五左衛門とあらためてそのまま側衆となったのでございます。
 側衆というのは藩主の秘書的なお役目でございますが、利済さまご一家とは幼いときから成人になる今日まで城中で一緒に過ごしてきた佐渡さまでございますから、いわば一直線上の出世でございました。
 ときに、藩主利済さまは独裁者として知られておりました。
 なにをやるにしても決して藩政を他人まかせにできず、自分で行なって家臣の言を聞きいれることがなかったのであります。
 たしかに利済さまは企画性にすぐれ弁舌にも長(た)けておりました
「奥羽に美しい三層楼を増築し、新式の大砲を鋳造して備えよ」
 いきなり新奇事業を命じられたりなさいます。
 「幕府のお耳にでも入りましては、あらぬ疑いをうけぬともかぎりません」
 楢山帯刀さまや原直記ら側近の者たちはいつも憂慮して直諫(ちょっかん)におよびます。
「なにを申すか、外夷にそなえ大砲を造るは、北辺防備の任にあたる南部藩としては当然のことではないか。城の高楼とても同様じゃ、城には周囲を威嚇する相応の品格というものが必要じゃ。どうも近ごろは世の中が泰平になれすぎている。国の内外をみわたしてみろ、わしの発案が間違っていないことがよくわかるはずだ」
 なるほど、言われてみれば確かにそういう時代でもありました。
 日本列島を遠巻きにしている異国船に、たえず見張られているといった気配がありました。
 こうして、逆にやりこめられる始末です。
 このことだけならば、まさに卓見と申してもよいのです。
 ところが、利済さまは非常に派手好きで、城下の表玄関ともいえる奥州街道筋に江戸吉原まがいの遊郭を設けて旅人をおどろかせたりもするのです。
「南部の紊乱(びんらん)推して知るべし」
 余談ですが、後に東北を訪れた無名の吉田松陰をして慨嘆させたと申します。
 藩の財政は、北の防備をかかえるでさえ火の車ですが、利済さまの道楽はとどまるところをしりません。
 新丸を廃して豪奢な広小路御殿や清水御殿の造営ともなれば、もはや常識では考えられないことばかりです。
 このころ不作、凶作が続きます。これまでの大飢饉といえば今は昔の宝暦や天明年間のものですが、天保年間の凶作はそれにもまさる悲惨なものでありました。
「こう再々の不作だっつうのに、役銭だ、礼銭だ、御用金だと強いられては俺ぁたち百姓は如何(なんじょ)すればえのすか
「一揆しかなぇ」
 いきおい領民の一揆が起こるのでございます。
 なかでも、数千の農民が盛岡城下に押し寄せ、藩の財政を揺さぶった天保七年(一八三六)の一揆は、要求を受け入れるより鎮撫の方法がないほどのものでした。
「この際、広小路御殿のご造営を控えては如何(いかが)か」
 心ある重臣(佐渡さまの父帯刀さまもそのひとり)たちは、たびたび直諌におよびましたが、利済さまには反省のいろなどまるでなかったのであります。
「藩主の命にたいして無礼であるぞ」
 佐渡さまは、まだ六歳でお相手勤めをしておられたころのことでございます。
 
(二)世継ぎ騒動
小さな一冊 発信
北の杜編集工房
〒980-0803
仙台市青葉区国分町3-1-4 ムサシヤビル4F
TEL022-222-6309
FAX022-222-1142
Copyright (c) 2005 Kitanomori Editorial Office All Rights Reserved.