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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
一、武士(もののふ)の道
 
(二)ふたたび盛岡
  年号が明治と改まった翌二年六月初め、暑い日の昼下がりでありました。
 松並木の奥州街道は日詰(ひづめ)あたり、なかほどの一丁の籠を囲むようにして北を指して下る十名そこそこの一団があります。
 籠とはいっても、どうやら唐丸籠(とうまるかご)……。
 囚人護送用の籠であります。
 いくつか、小銃をかついだ五つボタンの軍装服の姿も……。
 佐渡さまが、東京から送り返されてきたのかもしれません。
「あれは咎人(とがにん・罪人)を運ぶ籠…、そんだ、きっと佐渡さまだ」
「おおい、佐渡さまだぞー」
 田植え真っ盛りの時季でございます。
 あちこちの田んぼから這いあがってかけより、街道筋に土下座して籠の近づくのを待ち受ける泥によごれた農民たちの姿も見えました。
 それは、咎人見たさのやじ馬根性などとはちがいました。
「佐渡さまぁ、佐渡さまぁ。あまりにも不憫(むじょや)な」
「お帰ぇりんせ、佐渡さま、俺(おら)ぁたちの佐渡さま……」
 なかには、道ばたの雑草をむしりながら嗚咽する者さえおりました。
 思えば昨年の十一月(陰暦)、冷たい粉吹雪の舞う日でございました。
 罪人として藩主南部利剛(としひさ)父子とともに江戸に、いや東京に護送されて行った佐渡さまでございます。
 あれから半年の時を経て、ふたたび盛岡へ送り返されることになったのです。
 切腹形とは申せ、処刑されるために……。
 きびしい警護のもとに金地院(東京都港区・南部家の菩提地)を出立されたのが五月二十二日(陰暦)……。
 朝から雨、もう三日も続いて止みそうにもありません。
 お籠は、雨の奥州街道を黙々と北へ向かわれたのでございます。
 東京を発たれてかれこれ半月、昨日は、そろそろ宵やみもせまる六ツ半を過ぎて南部領花巻に到着、久々にやわらかいお布団にやすまれました。
「いよいよに明日(あした)は、盛岡か」
 今朝は、清々しいほどに晴れわたって空には雲ひとつありません。
 佐渡さまは、お湯を浴びられ鬢(びん)のほつれをなおし髭もきれいに剃られました。
 出迎えてくれる者たちに、やつれ顔を見せたくなかったのでございましょう。
 昼食のお膳にかるくお箸をつけられた後、九ツ半(午後一時)を過ぎてから出立されました。
「佐渡さま、お山が見えあんした」
 街道の松並木筋で小憩した折に、付き添人が声をかけられました。
 巌鷲山(岩手山)に、わずかにいただく残雪は淡い茜色に輝いております。
「ありがたいお山だ」
 なつかしい風景でございます。
「もう、生きてふたたび盛岡の地を踏むこともないだろう」
 昨秋、東京に護送されます時に、いったんは涙して別れたなつかしいくも美しいふるさとの風景にございます。
「遅くも暮れ六つ(午後六時)までには、お着きになるそうでがすよ」
 盛岡城下の街道筋はたいへんな人だかりでありました。
 幽居に定められた北郊の報恩寺まで、佐渡さまのお籠が通られるという町並みは、近くの寺町通りといわず、大工町から本町、鍛冶町、紺屋町、葺手(ふきて)町、呉服町、肴(さかな)町、六日町、穀町と、けっきょく北上川の舟橋を渡ってお着きになる川原町にいたるまで、つぎつぎと町人たちが噂を聞いてつめかけてまいります。
 あちこちには、白鉢巻きを結んだ同心たちのものものしい姿……。
 厳重な警備でございます。
 やがて、とんがり帽に似た陣笠をつけた兵士を乗せた馬が一頭、中の橋の方から葺手町を右に折れて川原町の方に馳せむかいました。
 あれは、駐屯隊の薩摩兵にちがいありません。
「いよいよ佐渡さまが、おでぁるぞ」
 お籠の影が見えられたのは、予定の刻限をまわり黄昏せまるころでございました。
「佐渡さまぁ! 佐渡さまぁ!」
 制止(とめら)れているので声にこそ出しませんが、いくたびも心にとなえ手を合わせて、目の前を通りすぎるお籠を見送りました。
 ある者は声出して泣きながら、そのあとを追いました。
 だれがこの方を憎んでおりましょうか。
 いよいよ、報恩寺の境内に通じる長い参道が……。
 両側にはあかあかと篝火が焚かれ、周囲(あたり)を照らします。
 組んである竹矢来(竹で組んだ囲い)の奥に、いくつかの番小屋……。
 あちこちに立つ白鉢巻の人影も……。ものものしい警備です。
「一目だけでも、佐渡さまのお顔を……」
 ここまで籠の後を追ってきた人々も、参道に立ち入ることは許されません。地面にひれ伏して、ただ掌(て)をあわせるばかりであります。
 なかには警備にあたる者でさえ、瞼をうるませておりました。
 山門ふきんには少数の近親者と何名かの家臣が許されて詰めかけておりました。
 やがてお籠は、山門前に到着……。
 佐渡さまがお籠を降りられるや、親類代表の石亀七左衛門と楢山家用人の沢田弓太(ゆみた)がちかづいて両側につきそい、ゆっくりと山門をくぐられました。
「佐渡さま、お労(いたわ)しいことでござんす」
 七左衛門の声はふるえておりました。
「覚悟のうえのことだから、心配せぬように……。ほかにだれか見えてるか……」
「親戚の石亀河内、楢山蔵之進をはじめ、栃内正人、楢山周蔵、楢山五七郎や滝行蔵、梅田直美たちも見えておられあんす」
「そうか、河内も蔵之進もか、そうか、そうか、みなによろしく」
 口にこそ出しませんが、佐渡さまの脳裏をよぎったのは、なにより家族の安否だったことでありましょう。
「父上は元気か、娘たちは如何(なんじょ)だ、なか(妻)は……」
 と…。喉元に出かからないはずはありません。
 親戚の者が、家族との面会を軍務局に申し出たのですが、ついにかなわなかったそうでございます。
「みなさま(家族)お元気で、おかわりながんす」
 それと察した弓太が、家族の無事を告げると微かに佐渡さまはうなずかれました。
「咎(とが)んもん(罪人)と、しゃべることぁならんとよ」
 軍服姿の男に小銃を向けられては、もう語りかけることもかないません。
 佐渡さまは、しばらく杉の老木をなつかしそうに見上げておられました。
 高張り提灯に照らしだされたお姿は、今朝ほど花巻で整えられたとは申せ、やつれはてて痛々しいほどでございました。
 思えば九ヶ月前、秋田戦線において南部藩全軍を指揮された、あのときの颯爽としたお姿と同じ人とはどうしても思われないのでございます。
 それにしても、軍務局からの命令なのでありましょう。報恩寺の警備はことのほか厳重をきわめてございました。
 監察四名、小監察六名、警衛士分二十名、同心数十名、譜代小者三名、介護者二名、あらかた百名にも近い人数……。
 着替えの衣服から、足袋、枕、手ぬぐいのはてまでも、駐留する官軍の許可を得なければ、支給されないというものでございました。
 あてがわれた部屋は奥の八畳間ひとつ。
 障子を開くと縁側越しに見えるのは、けやき(欅)の老木と老杉…。
 梢をわたる風の音が、佐渡さまのお耳に如何に聞こえたものでございましょう。
 庭前の池のほとりには、盛りを過ぎたとは申せ、いまだ美しい花菖蒲が佐渡さまの目に入ってまいります。
 花は咲く 柳はもゆる春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道
「弓太、この句は如何(なんじょ)だ」
「弓太は、ただ、ご無念でござんす」
 辞世の句として東京金地院幽因中からご用意の歌でございました。
 ここ報恩寺に来られてからも、なんども手直しを試みられておられました。
 人はえてして、確実に死ぬる身とわかれば自暴自棄におちいるのでございます。
 たとえば、朝から酒びたりになられる方もおられるなどとも申します。
 佐渡さまが、報恩寺に入られてから大変な腹痛におそわれたことがあって、ご番医に診てもらったことがございました。
「ただの食中毒じゃとぞんじます」
 投薬を受けられましたが、なかなか治りそうもございませんでした。
 手厚い看護にもかかわらず恢復どころか、食欲もないものですから、日に日に憔悴(しょうすい)していくばかりでございました。
 ひところは、危篤の状態におちいったとも申します。
「わたしは、死にたくない、まだ死なれない」
 うわごとを申されたそうでございます。
「あとなんぼでもない命じゃきに、南部の鼻曲がりザムライは、屍(かばね)も臭いが命根性まできたないがなぁ」
 あちら(薩長方)から派遣のある軍務官が申したそうでございます。
 なんとか小康をえるまでに半月ほども費やしました。
「佐渡さま、もうご安心を……」
「かたじけない、もしこのまま病に倒れたとあっては、死んでいった中島に申しわけがたたないと思ってな」
 中島とは、佐渡さま上洛のさいに同行した中島源蔵……。くわしくは、おいおい申しあげますが、薩長軍に対してしだいに疑念をいだかれていく様相の佐渡さまを戒めて、大阪の宿で割腹して果てた男でございます。
 思えばいさぎよい家臣でございました。
 しかし、あの時、中島の言うとおりに「倒幕派に荷担(かたん)すべきだった」と後悔してのことではございません。中島の進言をきいてやれずに「すまなかった」とわびるのでもございません。
 今は、そんなことはどうでもよいことなのです。
 真の武士として生きた者に対する限りない哀惜の情なのでありましょう。
 世に、寄らば大樹の陰などと申します。
 つねに天下の情勢を気にして強い方に巻かれる、そんな牛尾の生き方を、具眼(ぐがん)(物事の是非を判断する見識)と申すならば、いかにも「忍従と静観が不足(冒頭で触れた歴史書のとおり)」だとの謗(そし)りも、まぬがれないことでございましょう。
 しかし、佐渡さまは信念に生きられた方なのでございます。
 あの時、やはり倒幕論を唱えて進言し、効なしと見るや脱藩してひとり長州がわについた目時隆之進、この男のことは、これまで一言もふれたことがございませんが、中島源蔵のこととなりますとよく語られました。
「惜しい武士を死なせてしまった。私が至らなかったばかりに、中島にあのような死にかたをさせてしまった」
 いつもこう申しては目頭をおさえておられた佐渡さまにございました。
 万が一、病に倒れたとあっては、あの世で中島に合わす顔がないと思ったのでございましょう。
 倒幕派か佐幕派かは意見の相違、勝敗は結果論……。
 そのことでは佐渡さま、微塵の悔いもなかったのでございます。
 あるのは、ただ「武士(もののふ)の道」に対する哀惜……。
 ぜがひでも、晴れて切腹の日まで生きていたかったのでございます。
「切腹ならば心おきなく死ねるのだが、心配なのは、私の申し出のとおりにその形をとってくれるかどうか、新政府の奴らにつうじるかどうかだ」
 見回りの小監察に申したことがあったそうでございます。
 切腹ならば武士としての面目も立つことになるのでございましょうか。
 なんと武士(もののふ)とは、いさぎよいものでございましょう。
 
(3)武士の道
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