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北の杜文庫連載小説「楢山佐渡」
一、武士(もののふ)の道
 
(一)反逆首謀
  楢山佐渡(ならやまさど)さま、それはもう遠い昔の方にございます。
 明治二年六月廿三日(陰暦)未明、盛岡藩最後の筆頭家老として、叛逆首謀の汚名を一身に背負われて、盛岡寺山(てらやま)の報恩寺(ほうおんじ)中央一室で、無念のご最期を遂げられた方にございます。
 昨臘依
 御沙汰取調巻出候叛逆首謀楢山佐渡今般刎首被仰付条於其方致所置可及言上事
                                軍務官
 明治新政府軍務官による佐渡さま処刑の沙汰にございました。
 反逆首謀者としての刎首(ふんしゅ)……。
 刎首とは文字どおりに首をはねることでございます。
「有り難くお受けいたします」
 佐渡さま、微笑みさえ浮かべてお受けになったのでございます。
 花は咲く柳はもゆる春の夜に うつらぬものは武士(もののふ)の道
                      (楢山佐渡辞世の句)
 さて、近年(二〇〇四)発刊されたある歴史書のなかに『朝敵の烙印に無念の幕開け』の見出しで、次のような記述があります。
「慶応四年(一八六八)一月三日、京都の鳥羽伏見で火蓋を切った戊辰戦争は、翌年九月、東北の盛岡藩の降伏で終結した。政権争いの戦いは薩摩、長州を中心とする西南雄藩と幕府側との対立であったが、なぜか盛岡藩への逆賊の裁きが重かった。それは東北の諸藩が同盟を結んで戦い降伏したが、盛岡藩は情報不足から最後まで抵抗したためであった」。
 この文面に、事実誤認があります。
 盛岡藩の降伏は翌年ではなく同年(一八六八)九月でございました。
 いや、肝心なことはそんなことではありません。
 この戦(いくさ)は、発端はいずれにしろ「西南雄藩と幕府側の対立」というよりも、盛岡藩がからんだ頃は、西南雄藩と奥羽列藩の戦いでありました。
 西軍と東軍との政権争いとでもいうべきものであります。
 気になることは、盛岡藩への逆賊の裁きが重かったのは、「情報不足から最後まで抵抗した」との記述でございます。
 いかにも、形のうえでは最後まで抵抗しておりますが、それは単に「情報の不足」だけによるものだったのかどうか疑問です。
 先を急ぎますが、この文章は次のように続きます。
「…(中略)…盛岡藩の筆頭家老楢山佐渡は、武士の律義さが強すぎたがため、維新の行方が見えなかったとともに、忍従と静観が足りなかった、まして、幕藩体制のもとに伝統ある盛岡藩は、二六〇年も平和な時代が続いてきたのである。大挙して北上する官軍を、薩長の朝廷の威を笠に着る私兵の集団と判断したことが、命取りとなったのであった…(後略)」。
 佐渡さまに、武士としての律義さが強すぎたがために、「維新の行方が見えなかった」「忍従と静観が足りなかった」というのでございます。
 そして、あの薩長軍を「私兵の集団」と判断したことが「命取り」となったというのでございます。
 これではまるで、佐渡さまに「武士の律義さ」さえ強くなかったならば、そして薩長軍を「私兵の集団」とみなかったならば、盛岡藩もおもいめでたき官軍側として、新しい夜明けを迎えることができたといわんばかりでありましょう。
 はたして事実はそうでしょうか。
 佐渡さまが、このような方として後世に伝わっていくとしましたら、まこと口惜しいかぎりでございます。
 武士の律義さとはなんでしょうか……、薩長軍とはなんだったのでしょうか……。
 楢山佐渡さまと盛岡藩の名誉にかけて、いま一度「佐渡さま」のご生涯ををふりかえってみたいのでございます。
 君、諱(いみな)は、隆吉、通称は五左衛門、後、佐渡と改む。考(なき父)諱は隆冀(たかくに)、通称は帯刀。其の先信房は、実に我が政康公(南部氏、盛岡藩藩主)の第四子なり。信房の三世の孫直隆、始めて采邑楢山を以て氏と為し、世々老臣に列す。君の叔母烈子、藩主利済公の側室と為り、利義・利剛の二公を生む。故を以て、幼にして二公の昵(ちかづ)くる所と為る。年甫(はじ)めて十五、挙げられて側詰と為り、累進して近従頭と為る。人と為り剛直、寵栄に狎れず奢侈を喜ばず、読書講武、毅然として国家の柱石を以て自ら任ず。利済公、其の用ふ可きことを知り、命じて国老と為す。時に年廿有二。姦妄を黜(しりぞ)け忠良を陟(のぼ)せ、諸弊政を釐革(りかく)し、意に不可と為す者は、公の命と雖(いえ)ども敢て奉ぜず。事に当りて謇諤(けんがく)、輒ち(すぐ、たちまち)公の意に忤(さから)ひ、故を以て罷斥せらるる者しばしばなり。而も其の蠧害(とがい)を除き士民に沢し、功績己に少からず、人或ひは目して強項老(頑固家老)と為すも、一藩依頼す。外国の事起りて以来、尊攘の説大に起り、元治・慶応に至り、朝野騒然、事勢切迫し、徳川慶喜大政を奉還し、薩長二藩朝議に参ず。朝廷、仙台藩に命じて会津氏(松平容保)を討ち、我が藩に兵を出して之を授けしむ。尋(つ)いで鎮撫の三卿(総督九条道孝、副総督沢為量〈さわためかず〉、上参謀醍醐忠敬〈だいごただたか〉)東下して軍事を総督す。是(ここ)に於て奥羽諸藩、連署して会津氏の罪を宥(ゆる)さんことを請ふも、総督之を却(しりぞ)く。諸藩謂(おも)へらく、是れ皆、薩長二藩の為す所、幼冲の天子、何ぞ与(あず)かり知らんや、と。乃ち白石城(伊達家の家臣片倉氏の居城。戊辰の歳、奥羽越後二十三藩の使者ここに会議し、薩長軍の来攻を防ぐことを決した)に同盟し、兵を挙げて曰く、君側の悪を除かん、と。此の時に当り、君、藩命を奉じて京師に在り、薩長藩士の挙作を目して暴横と為す。奥羽の事を挙ぐるを聞くや、大阪より東航し、仙台に過(よぎ)りて藩老但木土佐を見、事を論じて意見相合ふ。直ちに盛岡に帰り、会議すること三日、藩論一決す。是より先、秋田藩、盟約に背き、仙台・庄内の二藩、兵を挙げて進撃す。君乃ち向井長豊と兵を将(ひき)ゐ、二道並び進む。身、士卒に先んじ、矢石を冒し、十二所を陥れ、大館を略し、所在克(よ)く勝ち、我が威、大いに震ふ。既にして白川・越後の諸道連敗し、米沢・仙台の二藩、罪を謝し降を請ふ。藩主、君に命じて罪を謝せしむ。君憤然として曰く、事此に至る、天也。余、且(まさ)に一死以て一藩に代らんとす、と。身を挺して秋田城下に至り、状を陳じ誠を表(あら)はす。総督府、諭して盛岡に還りて後命を待たしむ。己にして官軍盛岡に入り、君を逮して東京に護送す。明年四月、刑に盛岡に就く。実に明治二年六月廿三日、享年三十九。君固(もと)より死を分とす。其の刑に就くや、頭、地に墜つるも、目、瞑せず、人皆之を異(あや)しむ。聖寿寺の先塋に葬る。其の刑死たるを以て、法、碑を建つることを得ず。配小笠原氏、二男を生む、皆夭す。三女、一は毛馬内氏に嫁し(貞)、一は宮部氏に嫁す(浦)。一女太禰(たね)、後を承く。今茲廿二年四月、朝廷、戊辰の役に藩の事に死する者の家名を再興することを許す。君其れ以て地下に瞑すべし。有志者謀り、石を城北桜山神社、戊辰戦死碑の側に建て、余をして銘ぜしむ。余嘗て文字を以て君の知を受く。義、辞す可からず。乃ち之に銘ず。銘に曰く、
 鳴呼惟れ君 藩の閥閲 夙(つと)に名望を繋ぎ 自ら柱石に任ず
 三世に歴事し 舟と為り楫と為る 何為(なんす)れぞ変に処し 遽かに順逆を謬(あや)まる
 然りと雖(いえ)ども遽かに謬るも 心は即ち清潔 古より英雄 誰か庇欠なからん
 心苟くも潔清ならば 深く責む可きに非ず 恩命新たに降り 罪名斯(こ)れ釈(と)かれ
 其の家を再興し 永く不絶を賜はる 吾れ泣いて以て銘し 君が霊魄(れいはく)を慰む
                    山崎吉謙撰す(訳註・近藤啓吾)
 楢山佐渡さまのご生涯のだいたいは、聖寿寺(盛岡市北山)の一角に建つ慰霊碑に刻まれてあるとおりでございます。
 
(2)ふたたび盛岡
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